あなたが「見ている・感じている」ものが他人と違う当たり前の理由
こんにちは!
こしあんです。
あなたはテレビや映画を観ていて他人と違う場面で「笑った」ことがありますか?
”シーーン”と静まり返っている場面で、一人だけ声をあげて笑ってしまったことなどないでしょうか。
このとき、ちょっと恥ずかしかったりしますよね。
「人それぞれ違うだろう」とは思っていても居心地が悪かったりします。
私たちは同じものを見ているとき、そこにいる人も同じようにそれを見て、同じような事を考えていると思っています。
しかし、私たちは同じものを見ても同じように見ることはありません。
今回は、私たちが「見るもの・感じるもの」を左右しているのは何なのか?
というお話です。
【そのままの情報を受け取ることはできない】
結論から言えば、私たちは今までの「経験」が見るもの・感じるものを左右しています。
例えば、ひとつのリンゴを見ているとします。
あなたには美味しそうに感じられても、他の人からすればとても不味そうに見えるかもしれません。
また、その逆もありえますよね。
私は椎茸が苦手なんですが、大好物だという人もいます。
もちろん、椎茸の匂いや見た目から受け取っている情報などは同じはずです。
ですが感じ方は違います。
子どもの頃に苦手意識を持ったものが、そのまま大人になっても続くことってありますよね。
私の場合、椎茸の食感や味が子どもの頃に受け入れられず、苦手な食材の一つになっています。
このように外部から受け取った情報に、私たちの「経験」が合わさることで見たものが意味を持つようになります。
これが食べ物だとわかりやすいんですが、形のないものになってくるとよくわからなくなります。
たとえば、お笑い番組や悲惨なニュースを見たとき、誰もが同じような気持ちや感覚を持っていると錯覚します。
でも個人差はありますよね。
また、自分とは全く違う考えを持つ人もいるかもしれません。
しかし、不思議な事に多くの人が「誰もが同じ情報を受け取っている」、「同じように感じている」と考えています。
もっと言えば、自分が「見たもの」と他人が「見たもの」は同じだと考えています。
でもこれは幻想です。
そもそも出発点が違います。
私たちは何かを「見て」から判断しているわけではありません。
その逆で「判断」してからそれを「見て」いるんです。
そして私たちの「経験」は外部情報を歪めてしまうこともあるんです。
【私たちは身体のどこで見ているのか?】
多くの人が自分の目で見たもの、感じたものは割と信じますよね。
「自分で見たものを全く信じない」なんて人はいないと思います。
実際、科学者たちもかつて脳の視覚系がカメラのように作動すると考えていました。
つまり、外にある情報をそのまま取り込んでいると思っていたわけです。
あなたも視覚から入ってきた情報はそのままだと思ますよね。
しかし、現在では「非常に流動的で真に迫るが故に外界の正確な写しのように見えるが、見ているのは脳の構築物であり、それは必ずしも正確ではない」と言います。
「脳の構築物を見ている?」と考えると、私たちが今見ているものは何なんだ?
と考えてしまいます。
しかし、これは私たちが気づいていないだけで日常的に起こっていることなのだそうです。
では「脳の構築物」とは何なのか?
それは「外部の情報+内部の情報(経験)=脳の構築物(私たちが見ているもの)」といったものになります。
私たちは外界の情報だけをそのまま処理することができず、必ず自分が持っている内部の情報と一緒に処理をします。
この内部情報には今までの経験が使われています。
一口に「経験」と言っても色々あります。
この経験には実際に見たこと、聞いたりしたこと、周囲で起こったできごと、そして身体の内部で生じたことも含まれます。
この身体の内部で生じたものとは、その時感じていた「息苦しさ」や「心臓が早鐘を打っていた」といったことも含まれています。
また、私たちが持っているバイアスやステレオタイプといったものも含まれます。
しかし、経験が無くても自分で見た情報というものはそのまま脳で処理するのでは?という疑問もあります。
先ほどの図式が正しければ、もしかすると「経験」が無い方が外部の情報を素直に受け取れるのか?
とも考えてしまいます。
でも実際はそうはならないようです。
ここで、私たちの「経験」がいかに重要なのかわかる事例があるので紹介しましょう。
【知らないものは処理できない】
2014年頃、ニュージーランドにあるオークランドでは、街全体の犯罪件数が大幅に減少していました。
しかし、チャイナタウンの繁華街では強盗事件が驚くほど増加していたそうです。
一体何が原因だったのか?
ちなみに警察は容疑者を捕まえ、盗品の一部を回収するところまでいっていますが、容疑者を起訴することができませんでした。
それはなぜか?
それは、被害者たちがカバンを強奪したひったくり犯の顔を見ていたとしても、面通しの際に犯人を特定することができなかったためです。
実はチャイナタウンに観光できていたアジア人の多くは、犯行に及んだ黒人の少年たちの顔を覚えることができなかったんです。
実際、少年たちも「アジア人は俺らを特定できない」と言って犯行を繰り返していたことがわかっています。
たとえば、容疑者の肌の色が明るかったのか暗かったのか?
髪型はどうだったか?
といった情報はアジア人でも伝えることができましたが、それ以上の情報は伝えることができなかったと言います。
特殊な状況だったから、顔を覚えていないだけでは?
とも考えられますが、黒人女性はひと目見ただけでも強盗犯を高い確率で特定することができています。
もし、私たちが視覚情報を”そのまま”受け取っているのならばこのような事は起こりませんよね。
見たままを話せば事件は解決しているはずです。
しかし、私たちの脳が経験を通して「判断」してから見ていると考えるとどうでしょう。
馴染みのない顔、知らない顔は判断がつきません。
判断がつかないものを私たちは正確に見ることはできないんです。
そもそも顔の認識というものは、子どもの頃の環境が重要だと言います。
人は基本的に自分と同じ民族の人々に囲まれて暮らすことが多いですよね。
そうすると自然に乳児が見る顔の特徴はたいてい限定されてきます。
言い方を変えれば、乳児の脳はそれ以外の顔の特徴を検知できるようには調整されないとも言えます。
これが自分と異なる民族の顔を覚えたり、区別したりするのが難しくなる理由の一つだと考えられています。
そして、私たちの脳はこのように幼い頃からいろんなものをカテゴリーに分け、レッテルを貼りながら成長していきます。
これは脳の負担を減らし、素早く物事を判断するために必要な事だったりもします。
しかし、このカテゴリー化は自分に似ている人の顔に注意を向け、そうでない人を感知する能力を鈍らせることで、自分とは違う人を受け入れ、理解しようとする努力を妨げることもあります。
ある実験では、白人の研究参加者は、白人の顔を見せた時よりも、黒人の顔を見せた時の方が、顔の処理に特化した脳領域での脳活動が少ないことが判明しています。
つまり、黒人に対する鈍い反応は、脳がそれらの顔をカテゴリー的にしか見ていないことを示唆しています。
もっと簡単に言えば、異なる黒人の顔を見ても「黒人、別の黒人、また別の黒人、、、」というように提示されていたある種のカテゴリーに反応しているだけだと言えます。
こうなるともう「個人」を見ることはありません。
あなたも日本に住んでいて、黒人や白人を正確に見分けなければならない状況になることはほとんどありませんよね。
私たちの脳は使わない機能は発達しないので、環境が変わったり、意識的に訓練をしない限りこの能力はそのままなんです。
【人は見たいものを見る】
あなたも美術鑑賞というものをしたことがないでしょうか。
圧倒されるようなものから、よくわからないものまでたくさんありますよね。
特に、抽象芸術は人間の脳が経験を構築しているが故に成立しうると考えられています。
美術家のマルセル・デュシャンは「芸術作品の想像において、アーティストは50%しか役割を果たしていない」と言っていたそうです。
つまり、残りの半分は鑑賞者の脳にゆだねられているというわけです。
たとえば、ピカソの絵を思い出してみてください。
「ゲルニカ」、「泣く女」、「アビ二ヨンの娘たち」など色々ありますが、顔や身体のパーツの位置など普通では考えられない場所にあったりしますよね。
その絵を見て私たちが「これは顔だ」とか「この部分は腕だ」といった事が理解できるのは、人間の形状に関する記憶を持っているからだと言われています。
また、こんな話もあります。
モネの「睡蓮」の中にカエルを見つけた子供もいます。
もちろん、モネの「睡蓮」にカエルはいません。
しかし、なぜこの子どもは「睡蓮」の中にカエルを見つけることができたのか?
想像力?
ただの見間違い?
理由はハッキリしませんが、一つわかっていることはこの子が「水辺にはカエルがいる」ということを見たり聞いたりして知っているということです。
つまり、カエルが水辺にいる「経験」をしているとも言えます。
もしかしたら、自分で池や田んぼに入って捕まえたことがあるのかもしれません。
もしこの経験が無ければこの子は「睡蓮」の中にカエルを見つけることができなかったと思いませんか?
私たちは知らない情報を持ってくることはできません。
ただ、大人でも同じような経験をした人もいるはずです。
なぜ大人はカエルを見つけることができなかったのか?
それはやはり経験の「差」があるのではないでしょうか。
子どもと大人では経験、知識量というものが違います。
そのため「睡蓮」の絵を前にしたとき、「モネは印象派を代表するフランスの画家で~」とか「代表作は~」といったことの方が優先されて記憶から引き出されているからではないでしょうか。
大人になると色んな角度から物事を見ることが出来るようになるため、カエルを見つけられる可能性が低くなっているのかもしれません。
それに子供と大人ではカエルと触れ合った時期というものに差がありますよね。
昔の記憶は薄れて、最近見たもの感じたものと結びついているのかもしれません。
もちろん「ただの見間違いだろう」という意見もあると思います。
しかし、この「見間違い」にも私たちの経験が使われていることがわかっています。
【なぜ見間違えるのか?】
私たちは「見間違った理由」を普段深く考えたりはしませんよね。
見間違うのはほんの一瞬です。
「あ、違ったや」とか「疲れてるのかな」と考えたり、友人だと思って声を掛けたら知らない人で、ちょっと恥ずかしい思いをしてそれどころじゃなかったりします。
ただこの「見間違い」は時と場所を選びません。
1970年代にアフリカ南部で兵役に服していた人の話です。
その人物は深い森の中で、実践を想定した演習に参加していました。
その時、彼は前方で何か動くの発見します。
彼の心臓は高鳴り、迷彩服を着てライフルを抱えたゲリラ兵の隊列が続いているのを目にしました。
彼は本能的に銃を構え、リーダーに狙いを定めます。
すると突然仲間から「撃つな、子どもだ!」と囁かれました。
彼がもう一度よく見ると、10歳くらいの少年がウシの列を先導している姿が目に飛び込んできました。
ライフルだと思っていたのはただの棒切れで、ゲリラ兵はウシだったんです。
彼は子どもとゲリラ兵を見間違え、撃ちそうになったことに酷く困惑していました。
自分の脳がイカれてしまったのか不安になったと言います。
しかし、彼の脳に問題はなく、正常に機能していました。
ではなぜこのような「見間違い」が起こったのか?
これを理解するには私たちが目や鼻などの器官から受け取っている情報をどのように処理しているかを知る必要があります。
脳科学者のリサ・フェルドマン・バレットによれば、「これらのデータは、私たちのほとんどが経験している視覚、聴覚、嗅覚などの意味のある感覚の形態で届くのではなく、間断なく浴びせられる固有の意味を持たない光波、化学物質、気圧の変化などに基づくものに過ぎない」と言います。
私たちは日常生活で視覚、聴覚、嗅覚を通して様々な刺激を受け取りながら生活していると思っています。
というのも、私たちは感覚器官で感じるのではなく、「脳」でそれを感じているためです。
たとえば、何かを食べた時、舌で美味しさを感じているのではなく、あくまでも「美味しい」と感じているのは「脳」だということです。
難しく感じるかもしれませんが、たとえば食べ物の匂いや見た目というものが発しているデータに意味はありません。
そこに「美味しそう」とか「色が鮮やか」といった意味を持たせているのは私たちの経験になります。
だって食べ物から「美味しい光線」を出しているわけではありませんよね。
私たちが受け取っているデータは「リンゴが赤い」とか「甘い匂い」といった情報だけです。
この受け取った曖昧な感覚データを脳は処理しなければなりません。
ここで私たちの経験が使われます。
この経験が使われるとき、脳が最も重要視していることがあります。
それは「生きられる」ことです。
脳の任務は健康を維持し、身体をコントロールすることです。
そのため次々に受け取る感覚データから意味を引き出す必要があります。
そうしないと、例えば獣を見ても危険かそうでないかの判断ができません。
先ほどのリンゴの話をすれば、リンゴから受け取った外部情報に私たちの経験をプラスします。
リンゴが美味しいことを知っている人や、健康に良いという知識を持っている人はそれを摂取しようとします。
逆に、味や食感が苦手という人はそれを遠ざけようとします。
私たちの脳は「一瞬のうちに電気的情報をやり取りすることで、過去の経験の断片を再構築し、感覚データの意味を推定して処理方法を決定するために、それらの断片を記憶と結びつける」とバレットは言います。
この過去の記憶が私たちの見るもの、感じるものを決定づけています。
実はこの記憶と結びつけるときに身体の内部で起こった事も一緒に結び付けます。
似た経験をしたとき、「苦しかった」のか、「心臓はドキドキしていたのか」といったこともです。
この身体の記憶を思い出した脳は「同様の状況になったとき、次に何をしただろう?」と自問します。
そして身体の次の行動を計画するのです。
森の中でゲリラ兵を見た兵士の脳でも「同じような状況で、身体が似たような状態に置かれ、特定の行動をしようとしたとき、次に何を目にし、感じたか?」という問いを一瞬で行っています。
つまり、深い森の中で敵に遭遇し、心臓は早鐘を打ち、極度の緊張状態に陥った時、過去の自分は何を目にして何を感じたのかを思い出しています。
過去の経験を元に、森でゲリラ兵と遭遇したと判断した脳は、牧童をゲリラ兵に「見間違う」ことで生存率を上げようとしています。
もしこれが逆だった場合、少年だと思っていたゲリラ兵に攻撃され、命を落としていたかもしれません。
こうやって人は自分の都合の良い様に「見間違える」のです。
私たちは「外界」の情報だけを処理することはできません。
必ず自分の過去の経験が影響しています。
過去に経験したことで見方が変わるというのは面白くもありますが、嫌な経験によって辛い思いをしている人もいるかもしれません。
しかし、この脳の「予測」を変えることはできると言います。
私たちの過去はもちろん変えることはできませんが、これから先の事は選び取ることができます。
また、そうすることで他者に対する共感を育み、態度を改めることも可能だと言います。
「平和の種」と呼ばれる組織は、パレスチナ人とイスラエル人、あるいはインド人とパキスタン人といった深刻な対立関係にある国(文化)出身の10代の若者を一堂に集めることで、彼らの脳が発する「予測」の変更を促す活動をしているそうです。
私たちは同じようなステレオタイプを持った集団の中で生活しています。
これが円滑に生活にするために役立ってもいますが、同時に偏見も生まれています。
経験を増やし、脳の「予測」の選択肢が増えることで、私たちが見ているものも変わってくるのではないでしょうか。
そして誰一人として長い人生の中で、他人と「全く同じ経験」をしながら生きてきた人などいないと思います。
そうであれば、「見えているもの」がそもそも違うのです。
そのため人とは違う感覚や考え方が人の数ほどあるはずなんです。
人と違う感覚に不安を覚える人もいますが、そもそも「同じものは見れない」ことを忘れてはいけませんね。
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