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多くの人が知らない「公正」な世界の裏側
こんにちは!
こしあんです。
誰だって、やってきた努力が報われる。
親切な人、良い人と言われる人には幸せになってほしい。
長生きして欲しいと思います。
(誰にとって良い人なのかはこの際置いておきます。)
逆に悪人と言われる人には罰が下ることを望んだりします。
多くの人がその方が正しいし、公正な世界だと感じています。
あなたはどう感じるでしょうか?
ただ極端な話、この考え方からいくと「上手くいかないのは努力が足りないからだ」ということになります。
確かに努力をしなければ届かない場所というものはあります。
最初から「できない」「やれっこない」と諦めるよりはいい。
できると信じてやってみて、挫折するほうが得るものはあります。
しかし、努力をしたからといってみんなが同じ場所に到達するわけではありませんよね。
誰もが100メートルを9秒台で走れるわけではありません。
私は自分が親になったとき、子どもの能力をもっと伸ばしたいという思いから「もっとやれる」、「もっとできる」という考えを押し付けていたことがあります。
上手くいかないのは本人の努力、やる気が足りないからだと考えていたわけです。
本人が自分で「よし、いっちょやってやる!」という気持ちを持つのは問題ありません。
でも、この気持ちは人に押し付けられて感じるものではありませんよね。
私たちは自分が「正しいことをやっている」と感じているとき、とても視野が狭くなります。
そして、そうなってしまう人の多くが被害者をさらに追い込んでしまう世界に生きています。
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【公正でなければ”不都合”な世界】
心理学者メルヴィン・ラーナーによって提案されたものに「公正世界信念」と呼ばれるものがあります。
これは、人は相応しいものを得て、その人が得たものは相応しいという考え方です。
つまり、良い人には良いことが、悪い人には悪いことが相応しいと考えているわけです。
一見、何の問題もないようにも感じますよね。
私自身もそう考えていた時期がありました。
社会心理学者のリチャード・H・スミスによれば、「私たちは不幸が相応しいかどうかを決める基準を共有しており、普段からそれを使っている」と言います。
でも、不幸が「相応しい基準」ってなんだろう?
と思ったりもします。
私たちは誰かが不幸になって、それが相応しいと感じるときってどんな時なのか?
これは芸能人の不倫報道がわかりやすいのかもしれません。
たとえば、「不倫は絶対ダメ!」という文化的に共有された基準に従っているとき、私たちの考えは公明正大だという太鼓判を押されます。
だから不倫をしている芸能人を激しくバッシングしても良いというお墨付きを得るわけです。
そして、
ルールを破る奴は悪いヤツだ!
そんな奴には罰を与えなけらばならない!
だから「私の言っていることは正しい!」
という思考だけで他人を非難し、いい気分を味わっています。
そもそも芸能人の不倫など、自分やその身近な人が損害を受けたわけではないのに執拗に追いかけ、しかも激しく攻撃します。
これは、「正義中毒」というものに近いのかもしれません。
私たちが正義を振りかざすとき、MRIで脳の様子を観察するとその活動はコカインを摂取できると期待している麻薬中毒者の脳の活動と類似しているそうです。
つまり、悪い奴を懲らしめて快感を得ているのです。
最近ではお寿司屋さんの動画か拡散され、見かけた人も多いのではないでしょうか。
これも似たような心理が働いています。
このように、私たちは不幸になる「責任」のある人々は、苦しむのに相応しいと考えていたりします。
つまり、自分にとって良い行動は報われて当然であり、極端に悪い行動は厳罰が必要だと考えているわけです。
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【この背景には一体なにがある?】
実は、人がなぜこのような考えに陥ってしまうのかと言えば、自分のいう事を聞かない人、自分を騙すような人が幸せに暮らすことが許せないからです。
だってそれがその人が信じる「公正」な世界なんですから。
自分のいう事を聞く人は幸せに。
言う事を聞かない人、気に入らない人は不幸になるべきだと考えています。
単純と言えば単純ですね。
それ故に、非常に強力なものでもあります。
また、公正世界を信じている人たちは、「本人が自由意志によって選んだのだからすべて本人が原因だ」と見なすことがあります。
つまり、すべては「自己責任」だと決めつけます。
でもそれって本当ですか?
過酷な環境で育つ子どもたちに向かって「あなたはそこから脱け出すための努力が足りない!」という一言で終わらせることができるでしょうか。
一見、「良い人は報われ、悪人は罰せられる」という世界は正しいようにも思えます。
しかし、ラーナーによれば、「この信念は罪のない人たちが苦しんでいるときに彼らを非難する」と言います。
たとえばこんな話があります。
1980年代後半、フォート・ローダーデールという町にあるレストランの駐車場で誘拐された若い女性が刃物で脅され強姦された事件がありました。
加害者は逮捕され、裁判にかけられましたが陪審員たちは彼を無罪としています。
陪審員長は「私たちは総じて、まるで誘っているかのような彼女の服装を問題視した」とコメントしています。
事件当時、被害者の女性は白いレースにミニスカートとタンクトップ姿で、下着をつけていなかったそうです。
あなたはこれをこの事件をどう捉えますか。
「こんな格好をしていれば仕方がない」と思うでしょうか。
公正世界信念は、何か気に入らない結果があるとき、一足飛びに誰か特定の人を原因だと決めつけやすいことがわかっています。
本当は複雑な原因があるはずなのにそれを無視します。
なぜこんなことをしてしまうのか?
それは多くの場合、私たちはすでに結果がわかった状態で原因を探すからです。
誰か(何か)が原因だと思うと、そういう目で結果を見ます。
先ほどの事件であれば、陪審員たちは強姦されたという結果から原因を探し、その原因は煽情的な服装をしていた女性にあると考えました。
簡単に言えば「そんな恰好をしているのが悪い!」と考えたわけです。
でも、だからといって強姦していい理由にはなりませんよね。
社会心理学者マーク・アリックの調査では、私たち人間は「他者は実際よりも悪い結果をコントロールできるはずだ」と見てしまうことがわかっています。
つまり、「あなたはそうならないための努力をもっとできたはずだ」と考えているわけです。
だから、努力が足りないと感じる人が落ちぶれるのは当然で、少ない労力で成功している人を悪だと決めつけます。
そうしないと真面目にやってきた自分がバカみたいに感じるからです。
あなたはこんな「公正」な世界で生きていきたいですか?
長い人生の中で自分でコントロールできないことは沢山あります。
それをすべて「個人」責任にしてしまう世の中はとても生きづらい。
もし、「自業自得でしょ」という考えが浮かんだら、この「公正世界信念」という言葉を少しだけ思い出してください。
全てを個人の責任にしてしまうとき、私たちは自分の都合の良いように世界を見ているだけなんですから。
今回はここまで
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最後までお読みいただきありがとうございます。
それではまた次回お会いしましょう。
※この記事は読んだ本をもとに考察し、私の経験したことなども踏まえて書いています。
そのため、参考にした本とは結論が異なる場合があります。
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