So Many Stars(小説)
※ 5,500文字程度あります。
ジャズシーンでよく歌われる曲をモチーフに小説にしてみました。
ママはテーブルいっぱいに白い花を広げ、一本一本丁寧な手つきで花瓶に生けていた。こうなるとママはお花に夢中になってしまって、いくら話し掛けても「うーん」とか「はぁ」なんて返事しかしなくなる。しばらくかかりそうなので、咲はダイニングから見えるリビングのソファに足を投げ出して座り、膝の上に絵本を広げた。まだ文字が読めなかった頃は、絵本の中の素敵な絵を眺めるだけでも楽しかった。字が読めるようになると、この絵本ともっと仲良しになれた気がして、前よりもずっとこの絵本が好きになった。読み続けているうちに、この絵本は咲の宝物となった。ママも子供の頃からこの絵本が大好きでよく読んでいたそうだ。咲は、咲の大好きがママの大好きでもあることを知り、嬉しさで心が大きく膨らむ気がした。それ以来、この絵本は咲にとって特別な絵本になった。表紙にはシャボン玉のように儚い円がいくつも描かれており、白抜きのタイトルに『お星さまのうた』とある。少し神秘的な色使いもお気に入りの理由の一つだった。
絵本を開くとまず、小さな船がいくつも停泊しているマリーナが出てくる。マリーナは朝焼けで黄色く染まり、空の雲の合間から光が零れていた。絵本の中の絵なのに、まるで本物の夜明けの輝きのように眩しく見える。でも、この輝きを見ても目はチカチカしない。咲は声に出して最初のページを読み上げた。
「夜明けはたくさんの夢でみちあふれています。その夢の中にはわたしの夢もきっとあります。そして、わたしがそれをお星さまにおねがいしたときのように、どのお星さまもだれかからおねがいされるとみるみる光りはじめるのです。だから、お空にはいっぱいのお星さまがかがやいているのです」
ママがふと手を止めて「そうね」と呟いた。咲はママが花を生けながらも咲の朗読を聞いてくれていることが嬉しくなって、声をあげて笑った。ママも生けている花のバランスを眺めながらにっこりした。ママの頬にえくぼが出来た。咲はママの柔らかい頬っぺたが大好きだ。
次のページを開く。今度は大きな空と広い緑の谷間が描かれていた。谷には大きな鳥が翼を広げて上昇気流に乗りながら下っている様子や、空にはブラシに絡まった犬の毛みたいな雲が描かれている。
「風がうたをせかいじゅうのすみずみにゆきわたらせます。そのうたの中にはわたしのうたもきっとあります。そして、わたしがあるお星さまのことをうたったときのように、どのお星さまもだれかからうたわれるとみるみる光りはじめるのです。だから、お空にはたくさんのお星さまがかがやいているのです」
ママの方を見ると、ママは鼻歌を始めた。それは咲のお気に入りで、お星さまのことを歌っている曲だ。咲はまた声をあげて笑った。ママも笑った。咲は次のページを開いた。すると、見開き一杯にたくさんのハートのバルーンが夜空に飛んでいく様子が広がった。
「かぞえきれない日々や明けない夜も、ずっとさがしもとめてきた、たくさんのまなざしや思い、そしてほほえみ」
このページは少し大人っぽくて、咲がたどたどしくこのページを読み上げるたび、ママはかわいくて堪らないという顔をして笑うのだ。
咲は次のページへ進み、続けて読み上げた。
「こんなにたくさんのお星さまの中から、どれをえらびましょう?どの道へすすみましょう?それをどんなふうにつたえましょう?そしてそれを、どのようにしっていくことになるのでしょう?」
最後のページはひとつのお星さまがみんなを見つめている様子が描かれている。
「どの人にもあなただけのお星さまがかがやいています。お星さまはいつだってあなたのみかたで、あなたをみまもり、ときにはあなたをみちびいてくれるのです」
ホテルの最上階にあるこのレストランは、天井から床まである大きなガラスに囲われており、東京の景色が一望できることが自慢だ。夜になると、銀河のように白く輝く粒の向こうにオレンジ色に光る東京タワーや、青白い光を放ったスカイツリーが見える。レストランの中央にはグランドピアノが鎮座し、ディナータイムには耳心地の良い生演奏を聴きながら食事が楽しめる。音々呼は、奥の楽屋から中央のピアノまで行く途中のこの夜景を眺める時、毎回のように、人工的な景色もなかなかいいもんだと思う。
美しい夜景を横目にピアノへ着くと、いつものようにグランドピアノの屋根を高いところにセットし、鍵盤蓋を開けた。手際よくマイクスタンドを調整し、流れるようにマイクヘッドをちょうど自分の鼻先へ持ってくる。「テステス、ハァハァ、ヘェ」と手短にサウンドチェックをし、一先ずステージ前の準備を終了した。ピアノに座りながら、音々呼はさり気なく今夜の客層をチェックする。若いカップルが多いのか、家族連れが多いのか、それとも、音楽そっちのけで騒ぎたい団体客が多いのか。店は客入れのピークタイムを終え、どのテーブルにもお客様が着席していた。時折、ところどころで子供の声がするので、今夜は小さなお客様を連れたご家族が多いようだった。
「ディズニーソングからかな」音々呼は楽譜の束からディズニーソング数曲分を取り出し、曲順を整える。素敵な夜を歌った“ベラノッテ”から始めて、子供たちの大好きな人魚姫の歌やあまり知られてはいないが名曲の一つであるピーターパンの歌を歌おう。それから誰もが知っているあの映画の曲を…
「お姉ちゃん、お歌うたうの?」
唐突に話し掛けられたので、思わず楽譜を落としてしまいそうになった。腿のところで楽譜を抑え、声の方に顔を向けると、胸元に絵本を抱えた少女が立っていた。黒いワンストラップのエナメル靴はぴかぴかで、白いソックスからこぢんまりとした足が伸び、ひざ丈のブラックウォッチのワンピースに白い丸襟が上品だった。前髪は、やや薄いが立体的な眉の上できちんと切り揃えられており、彼女の大きな瞳を際立たせている。肩まである髪を、耳のあたりでハーフアップしている後ろには、ワンピースと揃いの布のヘアクリップが留められていた。ご両親の愛情が、足の先から頭のてっぺんまでいっぱいに詰まっているのが一目でわかる。
「そうよ。これから歌うの。お歌、好き?」
少女は下唇を噛みながら頷いた。
「これからディズニーの曲を歌うよ。何か好きな曲はあるかな?」
少女はやはり下唇を噛みながら少し体を揺らして、じっと音々呼を見つめた。その瞳の奥から、微かに親しげな温かさを感じた。音々呼は彼女が抱えている絵本を指して、大事な絵本なのかと尋ねると、こくりと頷いて音々呼に絵本を差し出した。表紙に『お星さまのうた』と書かれている。
「そっか。お星さまの歌を歌って欲しいのかな?“星に願いを” ってピノキオの歌、知っている?」
少女は唇をすぼめて、体をよじった。
「咲、その歌も好きなんだけど、違うの。その歌じゃないの。でも、お姉さんに絶対に歌って欲しいの。お星さまの歌だよ。ママが好きな歌なの」
はて、星に願いを以外の星の歌となると、他にどんな曲があったかな。ふと、絵本にヒントがあるかもと思い、少女から絵本を受け取り、最初のページを開いた。朝焼けの陽ざしの眩しい挿絵に“夜明けはたくさんの夢で満ちあふれています”という一文に閃くものがあった。ああ、これは“So Many Stars” の歌い出しと同じ言葉ではないか。
「もしかして、こんな歌?」
音々呼はメロディを口ずさんだ。すると少女は「それ!」と嬉しそうに飛び跳ねた。
「ママが大好きなの。だからパパも大好きなの。咲もその歌が大好きなの。咲はママとパパが大好きだから、この歌をママ達にプレゼントしたいの!」
なんと素敵なリクエストだろう。幾重にも大好きが包み込まれたリクエストだ。音々呼は、必ずこの曲を歌うから楽しみに待っていてねと約束した。彼女は何度も振り返り「絶対、絶対歌ってね!」と念を押して消えていった。
大人が思うより、子供は音楽に興味津々だ。演奏が始まると、ピアノの傍にいたがる子供は少なくない。ささやかな生演奏でも、その響きに心を動かされ、それをまっすぐに感じ取る。もしかしたらそれは、子供の心がまっさらで柔らかいままでいるからなのかもしれない。このレストランは子供に優しいので、そんな小さなお客様が現れると子供用の席をピアノの目の前に用意してくれる。小さなお客様がお行儀よくちょこんと座って音楽を聴いている姿は実に微笑ましい。今夜は、小さなお客様から彼女のご家族へ向けたリクエストを承るという、とりわけ素敵なステージになりそうだった。音々呼がピアノの前で姿勢を正すと、周囲の灯りが暗転し、スポットライトが音々呼を照らした。
ポロンと静かに鍵盤を弾く。音が粒となって宙に漂う。音々呼は目を閉じて、歌い始める。周囲の雑音が次第に消えていき、歌声が静かに各テーブルへ寄り添っていく。音々呼にはそれが色とりどりのシャボン玉のように見える。淡いシャボン玉がそっとテーブルのお客様を包み込む。音の魔法がかかって、目の前に座る大切な人たちと過ごす時間が、より思い出深いものとなっていく。音々呼はメドレーのように次々とディズニーソングを歌い、最後にマイクを通してこれから歌う曲についてMCを入れた。
「本日は当レストランにお越しくださいましてありがとうございます。今夜はとても素敵なリクエストを頂きました。小さなお客様、咲ちゃんよりご両親へのプレゼントです。“So Many Stars” 聴いてください」
スポットライトが消えるとすぐにスタッフが駆け寄ってきた。
「お客様より音々呼さんにお礼がしたいと言付かってます。四番テーブルです」
先ほどの少女のテーブルだろう。彼女から自己紹介はされなかったけど、自分のことを「咲」と呼んでいたので、勝手に“咲ちゃんからのリクエスト”として歌ったけど、ちゃんと聴いて頂けたようで良かった。
音々呼がテーブルへ向かうと、六十代の品のいいご夫婦が向かい合って座っているのが見えた。男性の方が「ほら来たよ」とご婦人を促す。音々呼がテーブルの脇に立つと、ご婦人は音々呼を見上げた。優しいまなざしが、先ほどの少女とそっくりだった。
「先ほどは大好きな曲を歌ってくださってありがとうございました。とっても素敵なお声で、すっかり聴き入ってしまいました」
ご婦人は軽く首を傾げて微笑んだ。頬のえくぼが歳のわりに彼女をあどけなく感じさせた。耳にはパールのイヤリングが光っているのが見えた。とてもよく似合っていた。テーブルに置かれた指は幼女のような無邪気さがあったが、手の甲は色褪せたつつじのように弱々しかった。
音々呼はふと違和感を抱く。先ほどの少女のご両親にしては、年輩過ぎるのではないか。少女はどこにいるのだろう。音々呼がご婦人の隣の席へ視線を這わせると、そこに少女が持っていたあの絵本が背もたれに立てかけるようにして置いてあるのが見えた。
「咲ちゃんは曲名がわからなかったみたいで、その絵本でヒントをくれたんです。ママの大好きな歌なんだって」
音々呼のその言葉に、夫婦が息を呑んで目を見合わせた。
「咲が、リクエストしたんですか?」
男性が驚いた表情で音々呼を見上げる。
「ええ。それが、とっても素敵なリクエストの仕方だったんです。“この歌をママが大好きで、だからパパも大好きで、咲ちゃんも大好きで、咲ちゃんはパパもママも大好きだからこの歌をプレゼントしたい”って。素敵なリクエストをこちらこそありがとうございました」
「本当ですか…」
ご婦人は手を口に当て言葉を詰まらせた。そして、何かを追憶するかのように絵本をひと撫でし、目にいっぱいの涙を浮べた。そして小さな嗚咽の声を上げると、ついに大粒の涙がその柔らかそうな頬へぼろぼろと落ちていった。「そうですか、あの子が…」次から次へと溢れ出る涙をハンカチでぬぐう。その手を、ご主人が優しく握りしめた。ご主人の目尻にもうっすらと光るものがあった。
「一緒に来ていたんだね」
ご婦人は声にならない様子で何度も頷いた。ハンカチで隠れた隙間から、彼女のえくぼが見えた。そして、かすれるような声で「ありがとう」と声を漏らした。
ご夫婦は、咲ちゃんはずいぶん昔に亡くなっていること、今日が咲ちゃんの命日であること、そして、咲ちゃんが亡くなったのは二十年も前だということを教えてくれた。毎年、咲ちゃんの命日にはこの絵本と一緒にお食事に出かけるのが、いつの間にか夫婦の恒例の行事となったそうだ。咲ちゃんのご両親は、音々呼に何度も何度もお礼を言った。
音々呼には、咲ちゃんのリクエストの本当の意味がわかったような気がした。
少女は二十年前、お星さまとなったのだ。
星になって、みんなの夢の一部となり、愛する歌となったのだ。空を見上げればお星さまがあるように、少女もいつでも傍に寄り添い、まなざしをやり、微笑む存在になったのだ。咲ちゃんは、ママの大好きな歌で自分の思いをご両親に伝えることが出来たのだ。
「私はお星さまになります。あなたのお星さまになります。だから、空を見上げてください。微笑んでください。心を寄せてください。私はいつでも、あなたの傍にいます」
「ありがとう」音々呼の耳元で少女の声が聞こえたような気がした。
おわり