たわごと #002 感動の宗教性と反応性
コンテンツで溢れかえっている昨今。
泣きたい人が多いのだろうか。
youtubeでおすすめの泣ける曲〇〇選だとか、ネット記事で泣けるアニメはこれだ!とか、そういったものが散見される。
それはいいとして、感動で検索すると、ほぼ間違いなく泣けるとイコールの意味で扱われているコンテンツしか引っかからない(過言)。
オタクという言葉もそうだが、結局、新たに知った言葉や、あるいは意味のよくわからない言葉に対して、自分の知っている範囲の情報を勝手に当てはめて、ラベリングして使いたがるものなんだと思われる。
多くの人は、自分の感情が動かされる瞬間を認識できていなく、泣いてしまったときにだけ、いま感情が揺さぶられていると実感しているのだろうか。
僕はこの感動という言葉の検索結果に感動した。こんなにも泣けるという意味で使用している人が多いなんて、何たることかと。
無知の自覚のない人たちは泣けるコンテンツを探すのに感動という言葉を使うのだろうか。
Google 「 感動 Q 」
たぶん、映画とか漫画とか音楽とか小説とか、終わった後の余韻が心地良いときがあると思うんだけど、それこそが感動だと。
あるいは、息を早く深く吸い込み、胸が苦しくなり、もうそれのことしか考えられなくなるような感覚。花がぱっと芽吹くような感覚。
少し昔にはそれを萌えと読んだ人たちも居た。あれも感動の一種。
泣けることだけが感動ではないということ。つまりそういうこと。
もはや世の中に疲れて悲しくなるという感情しか持たない人が増えてきたことで泣くという反応を無意識的に求めた結果、感動するコンテンツに救われたい人が増加。結果、感動=泣けるという図式が成立してしまったのだろう。しらんけど。
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