令和の米騒動に思うこと
東京のスーパーから米が消えてはや3週間。
残っているのは2kg以下の小さな袋ばかり。
割高感は否めない。
思春期の子ども2人を含む4人家族の
3食を担う親にとってこの状況はツラい。
ただ、すっからかんになった米の棚を見て
少し、考えたことがある。
今から79年前、日本は敗戦を迎えた。
あの夏は2kgどころか
一粒の米にも困っていたに違いない。
正真正銘、本物の「 米がない 」だ。
私には記憶はないけれど
記録を遡り、学んだ記憶はある。
今の我が家は
それに比べれば幸せがすぎる。
米がなくとも食べるものはあるし
外食で米を食べることだってできる。
あれ?
「 米はある 」だ。
「 米がない 」。
その言葉から一体何を受け取るのか。
ー政府の責任だ
ー買い占めが悪い
ー米がなくてもいい
人によってさまざまだし
いろんな意見があって当然だ。
ただ、端的に捉えるのではなく
ほんの少しだけ想像してみる。
後ろとか、前とか、右とか、左とかを。
それだけで人生っていうのは
すごく広がるし、
この想像力を養うために
私たちは国語や数学、社会や理科なんかを
学んできたんじゃないかなと最近よく思う。
きちんと理解しないまま
「 米がない 」とポストしたら
あちらからも、こちらからも
「 送りますよ 」と連絡をいただいた。
なるほど、やはり
「 米はない 」ではなく
「 米はある 」けど、
バランスよく供給されていない
これが正しい現実のようだ。
けっして、満タンの状態が「 ある 」ではない。
改めて感じる、2024年の夏である。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?