事業所を作った経緯(その1)
第8回目の投稿です。
前回は8日前だそうで、良い調子で投稿ができてます。
自己満ですが、継続できるとニヤニヤします。
本題ですが、事業所を作った経緯を書こうと思います。
「作った経緯」は、数多くある事業所選びで迷われている親御さんにとっては、違いとして見える部分になるかと思いますので、参考になれば嬉しいです。
まず、作った最大の理由としては以下です。
二次障害を防ぎたい!
これが一番大きいです。
この「二次障害」というのが、そもそもなんなの?という親御さんもいるかと思いますので、世間一般的に言われている「二次障害」をコピペしておきます。
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本人の神経発達症(発達障害)の特性を理解してもらえずに、家族や周囲の人から注意・非難・叱責を浴びると、自信をなくしてしまい、別の問題が出てくることがあります。 それが二次障害です。
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↑は「二次障害」で検索すると出てくる文言です。
今回はこの「二次障害」のエピソードを3つ書きたいと思います。
①新卒入社した会社の同期(Aさん)がADHDが原因で退職した話
Aさんとは部署は違いましたが、よく飲みに行く同期のうちの一人でした。
新卒同期あるある話しやすい人の一人です。
まず最初に、当時のAさんから聞いた退職の原因となった特性です。
・人の話が聞けない、理解ができない
・細かなミスに気づかない、気づけない
・同じ失敗を繰り返す
・物事をすぐに忘れる
・言われたことをメモしても、そのメモの内容がわからなくなる
・計画立てて物事を進めることが苦手
・同時作業(マルチタスク)がこなせない
Aさんは、上記の特性が原因で日々の業務に追いつかずストレスが重なり、肌荒れや月経不順、鬱傾向等の症状が出ていました。
入社時、Aさん自身で「美肌が売りです!」と笑顔で自己紹介していた姿を見ていた中で「肌がボロボロに荒れていく」という状態は、ストレスによる身体的症状でした。
精神科の主治医からは、不安な気持ちを和らげる薬物療法に取り組んでいました。
Aさんが自分自身に「あれ?」と感じ始めた時期
小学校低学年の教室での授業や移動授業(体育館や理科室等)の時で
社会人になってからではありません。
具体的な困り事は以下です。
●園や学校の先生の一斉指示は、指示自体はよくわからない
→周りが動くから一緒についていったらなんとかなった。
●中学高校の授業の際も、黒板に書いてあることは黒板を見ながらノートに移すことができるが、先生が口頭で”テストに出すぞ~”といった「大事なところ」はどこかわからない。
→友達のノートを見せてもらい、なんとかなった
●大学卒業に必要な単位を取得するための授業を取る計画も自分だけでは作れない
→友達と一緒に作り(4年間ほぼ一緒の授業で)なんとか卒業できた
振り返ってみると、5歳(年長)から大学卒業(5歳~22歳)までの17年間で、自身に対して「あれ?」が出るシーンが多々あったようです。
「あれ?」が「焦り・不安」に変わった時期
新卒入社時の新入社員研修でした。
具体的には、よくあるビジネスゲームや電話応対の練習です。
ビジネスゲームでは”各担当が低価格で商品を仕入れて、利益が出るような価格設定をチームで行い、購入してくれそうなチームへ各担当が営業し、利益を作る”というルールのゲームです。
ルール説明はプロジェクターでの投影資料による口頭説明と手元の資料を黙読の数分で理解する流れでした。
Aさんはこのゲームのルール自体の理解が追いつかず、よくもわからず担当になった商品を高価格で仕入れてしまい利益が小さく負けてしまったことがありました。
また、電話応対では、実際の電話を使いながら研修を行いましたが、耳での聞き取りとメモに残す作業がうまくできずにどこの誰からどんな要件だったのかがはっきりしない状態でした。
その他にも「あれ、全然できない」と思うことがあったようですが、新入社員研修の時に「今後の業務に対する不安が生まれた」といっていました。
他にも、Aさん自身振り返ると「あの時できなかったのは、ADHDの特性だったからかも~」と気づくことができていました。ただ、同時にAさんから「もっと早く知りたかった」気持ちがあったようです。
私が親に受診のことを言っているのかと聞くと「言っていない。発達障害と知ると親がショックを受けそうだから」という理由でした。(後々親と通院していたのでなにかのきっかけでいったらしいです)
また、親からADHDに関して、なにか子供の頃の話は聞いていないのか聞くと「特に聞いていない」とのことで、親御さんからの話は特になかったそうです。
親御さんからの話に関しては「気づいてなかったから言わなかったのか」
「気づいていたけど、学校に普通に行けていたから問題と思っていなかった」からかはわかりませんが、親御さんからのなにかしらの働きかけはなかったようです。
Aさんとしては、「今更親に言ってもマイナスに受け取られるけど、もし、なにか知ってて教えてくれてたら自分でなにか対策ができたかもしれない。でもこのまま仕事してたら、本当にうつ病になってたわ~」と笑いながらいっていたことが印象的です。
Aさんはその後、ネイリストの学校に通い、美容系の仕事をしています。
今振り返ると、Aさん(ADHDの特性)には、営業・コンサルタント職等、社内外の不特定多数の人とのやりとりや、不定形かつイレギュラーな業務が発生しやすい業務内容、業務量はマッチしておらず、Aさんの強みは発揮されない環境であったのかなと思っています。
ちなみに、Aさんは退職時に「ネイリストなりたいから」が表の退職理由とし「発達障害」というキーワードに対する周りの反応を気にして、発達障害であること自体は退職時の直属の上司のみに伝えています。
上司は「全然気づかず申し訳ないことをしてしまった。気づけていたら仕事の振り方をもっと改善できたかもしれないし、反省する部分がある」と謝罪をされたそうです。
Aさんの話から、Aさん自身の元々の明るくサバサバした性格により、最終的に「やりたいこと」として、美容系に進み「前職より自分にあった仕事」に近づけたことはポジティブに見受けられます。
ただ、その「自分にあった仕事」に近づくまでに「肌荒れや月経不順、鬱傾向」といった二次障害の一歩手前まで「自分を追い詰めてしまった経験」はいらない経験だと思います。
Aさんの話で知ってほしいこと
「発達障害があっても、周りの大人に気づかれなくても、周りにうまーくついていき、時には友達に助けられながら無事社会人になり就職することはできる」(就職している人が沢山いる)ということです。
裏返すと、子供の時に周りの大人が気づかない限り、お子さんと親御さんは特性を知る若しくは受け入れる機会はほぼなく、無事成長しているように見えるということです。結果的に、そのまま気づかれずに大人になると、社会人になってからはじめて傷つき、得意不得意等の根本の原因を身をもって気づくことになります。
Aさんの場合、元々明るくサバサバした性格から、良い友人に恵まれその友人の助けもあり大人になることができたのではと思いますが、他のお子さんがすべて良い友人に恵まれ、大人になることができるわけではないと思います。
周りの大人がお子さまの特性に気づくきっかけがあれば、まずその特性に目を向けて理解や関心を向けることは、必要だと確信しています。
未就学児のうちに、周りの大人がその特性や傾向に目を向けて少しでも理解する気持ちがあり、発達支援をする事業所に繋がれば一緒に伴走してくれるはずですし、その伴走はお子さまのためにもなり、親御さんの強い味方になるはずです。
ということで、事業所を作った経緯(その1)でした。
次回その2、就労支援員時代でのエピソードを書きたいと思います。
また書きます!
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