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9月入学移行議論をコロナとは別で話し合うべき理由

こんにちは
夢の木Lab.若林かおりです。

9月入学移行についていろんな視点から議論が進んでいますね。

9月入学移行議論は、4月末に高校生から声が上がったのがきっかけに、タレントがブログで賛成を示し、いろんな知事が「今こそ」と賛成を表明。

それを、教育学会や識者が「ちょっと待てよ」と慎重な議論を促す。

という感じ。

9月入学論は、今ある課題をすべて解決してくれそうな気さえしたアイデア。

ゆえに私も飛びついたわけです。(4月末の話ね)

しかしながらその時、教育に精通している方に聞いてみると、
多くの意見は、
「9月入学はコロナだからという理由で議論されるものではない」
という答えでした。

あれから数週間、私なりにいろんな意見に触れ、対話し、ということを繰り返して、
その意味が分かってきました。

今日は、9月入学移行議論がコロナとは別で話し合うべき理由について、私なりに分かったことをシェアしますね。

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まず、9月入学移行の議論についての歴史を見てみます。

これまで日本は、9月入学以降の議論がたびたびでてきた「らしい」
「らしい」というのは、私の調べた範囲では2つしか見つからなかったのです。

(1) 1986年 秋季入学に関する研究調査

中曽根さんの時代だそうです。
の調査書には、
移行にかかる費用や移行方法シュミレーションがなされていたそうです。

なぜ、その時代に9月入学に関する議論が出てきたのか?

その背景には、受験競争の過激化 校内暴力・いじめで学校が荒れていたということがあったようです。

4月から9月に移行することで、それがどう解決すると思ったのかは ”?” 

それでも、その頃小中学生だった方の話を聞くと、
学校の荒れ具合は相当なものだったようで、
今も「トラウマ」として残っている人もいらっしゃたので、相当な社会問題だったんでしょうね。

そしてその調査書には、結論
「夏休みが学年終わりになると塾へ依存し(=受験戦争の過激化)、非行が増える」という75%もの校長の懸念が書かれていたとのこと。

そこが議論にあたり、9月入学移行の議論が高まった背景には、グローバル化というよりも
「受験競争の過激化 校内暴力・いじめで学校が荒れ」の解消を期待して。というところがあったのかな?
と想像します。

(2)東大9月入学議論

こちらは10年ほど前。
私もほんのり記憶がある…。

濱田純一総長が提唱された秋入学構想 
ちらりとその議論と、その資料を拝見しましたが、これは「大学」に限った話で、
「義務教育、高校も丸ごと」という話ではなかったようです。

この先生がそれを意図したのかわかりませんが、大学を9月入学にして、高校を3月で終わり大学に春までの空く半年を、
自分と向き合う時間にせよ、本当に必要な進路を考えよ?
ということかしら? なんて思いました。

義務教育+3年で、リアル社会と接点を持たずに社会に出る子どもたちへの危機感があったんじゃないかな、と。

イギリスなんかは、1年か2年くらい社会に出る前の猶予期間があるんですよね。
そこで、見聞を深めたり、社会的スキルを磨く時間なんですって。

2つの議論の共通点

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この2つの歴史を発見したわけですが、
そのどちらも結局、採用時期、国家資格の開催、学校行事、云々でとん挫。

それを身近で見ていた立教大教授の中原淳先生曰く「梯子を外されていく様子」なんて表現をされていました。
政治なども絡んだのかな。
 

さて、そんな歴史を紐解いてみて思うのは、
9月入学移行が、大事な問題をすり替えているような気がしてきました。

それが、私がはじめに指摘されたこと
「コロナの話で議論されるべきことではない」

9月入学は仕組み(システム)を変えて、教育全体を変えようとする構想。
それが有効なこともあるけれど、

「今」はどうか?

休校で感じた、考えた

学校とは?
先生とは
行事とは
オンライン化、学校の多様化、学び方の多様化……

そのまま9月にスライドしたとて、中身が変わらなければ、意味がない。

むしろ、今の学校の体質そのまま9月にスライド。
そして、スライドの為の準備に時間を取られ、

当事者である子どもたち、私たち保護者
はまた取り残されていくのかも……。

9月入学以降は、本当の問題をそらしかねないなぁ…と。

行事がどんどんなくなっていくのもさ、
問題は、なくなることではなく、
何の代案もなく、子どもの気持ちや希望や考えを聴くことなく、勝手に決められていくことなのではないかと思う。

変わるべきところは、ここじゃないし、問題の本質はここじゃない

9月入学は、ひとつの方法であって、議論の本題ではない。
というわけです。

変革に必要なもの

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で、改めて私たちが求めていることって何かな~?
と思ったときに、

多様な学校であること/みんな一緒にからの脱却
学校がみんなでつくる、みんなの学校であること(もっとオープンに!)

これは私個人の希望です。

・学校になじめない子も、その子のペースで社会を広げ、学びが保障される
・もっともっと勉強したい子が、学年の範囲を超えて興味のままぐんぐん自分の才能を伸ばせるスタイル
・もっともっとたくさんの大人が関わる教育

などなどね。

そうなったときに、
まずは「意識」そして大人の「あり方」なんだよなぁ。

子どもにとって本当に必要な力を伸ばすのに、
私たちは、どうあるか、どう存在するか

ひとりひとりが、視野を広く、視座を高く、洞察できること。
個人的な損得、ジャッジメント、怖れから解放されていることも必要だよな…
とも^^;

少なくとも、リーダー的立場の人は!

恥と不寛容な心と社会は、どのようにつくられた?

なかなか進まないオンライン化も、
この緊急時で起きたことも、
結局、上層部の意識とあり方…


とある人によれば、上層部は失敗して訴訟を恐れているという。
これが事実かは別として、失敗による批判、非難への怖れは近いものがあるとは思う。

何もしなければ失敗しない
誰からも責められない

でもね…何もしないことこそ、失敗である

この意識が、これまでの日本教育の結果だと思う。
そういうことを教え込まれた教育だってこと。

教育を作っている人たちがそういう意識なら、その教育を受ける人だってそうなるわね。

失敗を責める、不寛容な心の狭さ。
失敗はダメだという恥の意識。

…で、結局「意識レベル」の話になっちゃった。

まずひとりひとりができること

結論。
9月入学議論は、もう一度軸を確認する。

なぜ、9月入学がいいと思うのか
9月入学で期待していることは何か?

それにはまずは、ひとり一人が、未来をどう作りたいかを考えたらどうだろう?

目指す先もわからなければ、課題もわからない。
そこに行きつく方法だってわからない。

考え抜いた結果、最善は、9月入学への移行かもしれない。

今のようになんとなく論点がずれたまま進めて、たくさんのお金と力を使って、結局

「え?思ったのと違う」では困りますからね。

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