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エーゲ海に捧ぐ

鶴見に行くときは決まって必ずこの「レストランばーく」のハムカツを食べる。鶴見駅近くのガード下にあるそれはそれは古い店である。

もし私が「わたせせいぞう」だったら、行きつけのDinnerのマスターのフィッシュフライは最高なんだ!とは彼女を誘わない。鶴見駅のガード下に洋食屋があって、そこのハムカツは最高なんだ!と彼女を誘いきっとその恋は敗れることだろう。

しかし、そんな時でもマスターは優しく無言でそっと僕にとびきりのホットチョコレートをご馳走してくれる訳ではなく、これでもかと言わんばかりに、ラードの海を漂って出てきたばかりの巨大なハムの塊(それをここではハムカツという)を僕に差し出すことだろう。しかも2塊をそれぞれ半分に切って、すなわち4塊。

「レストランばーく」に来るのは今年3回目である。たまたま鶴見駅近くでの仕事の用事があったのは事実だが、ふらっと立ち寄ったこの店で初めてこのハムカツに出会った時の衝撃は忘れられない。

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量や盛り付けで凌駕されるような食べ物はまあ度々出会うこともある。しかしこのハムカツはそれ以上に、食べれば食べるほど今自分が行なっている行為に対しての疑念を持たざるを得ない。

「私が今食べているのはハムカツだ。」

「しかし今私の口の中に入っているのはハムの塊。」

「どれだけ噛み砕いてもそれはハムの断片。口の中を支配しているのはハム。ハムが私の口の中を埋め尽くす。」

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これでどうやってご飯を食べればいいというのか?
そもそもおかずというのは、口の中に入れたご飯と絶妙に混ざり合い、素敵なハーモニーを奏でるものではないのか?
そのいい例が「焼肉定食」だ。焼肉は焼肉で食べればそれは美味しい。しかし、そこに白いご飯が加わった時の交響曲のような重厚な響き。
それは「餃子定食」でもそうだし「生姜焼き定食」でも同様だ。

しかしこの「ハムカツ」いったいどうしたことだろう!?むしろ口の中に入れた白いご飯を拒絶しているとも思える。
なぜならハムだからである。ハムはハムで決しておかずにはなりきれない。だったらなんなのだろう。ハム。

そんな哲学的な思考にさえなる、ライスとのアンハーモニー。
満腹で苦しいお腹とは関係なく、食べ終わっても今私が食べた食べ物はなんだったのか?深い迷宮の中にでも放り込まれたかのような気持ちになる。そんな食べ物である。

もういいだろう。一度食べたからもういいだろう。しかし、鶴見に来るとまたあの禅問答のような「ハムカツ」との出会いを求めている自分がいる。

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うちの会社の食いしん坊たちはチャレンジャーである。
さすがに1回目はハムの4塊に打ちのめされていたので、2回目のこの日はハーフサイズ。それでも2塊。重量もよほど指の筋力がないと箸で支えきれない。
ちなみにキャベツとドレッシングはとても美味しい。味噌汁はあまり美味しくない。ハムカツは?というと・・・。やはり2回目のこの時もよくわからなかった。
美味しいのか美味しくないのかよくわからなかった。
なぜならハムだから。ハムは普通に美味しいに決まっている。だけど、ハムの塊ってどうなのか?わからない。わからない。わからないので食べかけのハムの断面でも載せておこう。

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ね、ハムだからね。

それで、ここまでが序章!

今日、また鶴見に行くことになった。だけどもうハムカツはいいかもしれない・・・。
そんな思いと裏腹に、京浜東北線が鶴見駅のホームに滑りこむやいなや、私の頭の中はもうあの「ハム」のことでいっぱいになる。

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一口食べる。美味しい。今日は素直に美味しいと思える。だけど美味しいのはハムだから。今日はご飯を少なめにしてもらった。そしてひたすらハムを食べた。
ハムは歯神経の全てを掌握し、口の中を埋め尽くす。あの塊たち。食感は「ハム」味わいは「ハム」。なぜ私は今これを食べているのか?
味わうというより克服しようとしている。何を?

私の脳内で、青い空が海に溶ける。
ジャン=ポール・ベルモントが「気狂いピエロの」ラストシーンで
ダイナマイトを首に巻いて語るランボーの詩の一節をも引用したくなる。

口腔内を支配したハムの塩分が。口に運んだ白い米粒。
あの紺碧の海に溶けていく、エーゲ海の純白の雲のように。
小高い丘の上に建つ古代の宮殿のように。

また見つかった、
何が、永遠が、
海と溶け合う太陽が。
(アルチュール・ランボー(小林秀雄・訳)「永遠」(『地獄の一季節』)

そんなことを考えながら、私はまたハムカツを食べた。
ハムカツ定食ではなく。ハムカツとライスをである。
海と太陽のようにではなく、永遠に溶け合うことのないその二つ。



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