課題作成とゼミ発表から見った自分

後期の授業では、発表が必要なのは6つだった。その中の5つが今週で終わった。振り返ってみると、発表の準備のために何度も徹夜し、忙しくて大変だった。でも、いろいろと苦労したからこそ、自分のことがよりわかったような気がする。

まず、修論のテーマがなかなか決められないのが一番つらかった。テーマが決まらないと、教員と院生の全員の前で修論構想を発表する授業や、修論の内容に基づいて英語の論文を書く授業は、履修できないのではと思っていた。同級生の二人は、一人が内部生で、学部の時のテーマを続ける形で、春学期から実験をやり続けてきた。もう一人は年内にデータをとる予定だった。彼らに比べるとかなり遅れている。

研究したいことがあるのに、なんでテーマが決められないのと自分に聞く。それは、自分には研究ということに対してある考え方を持っているからだと思う。つまり、すごい研究をしなければいけない、役に立つ研究をしなければいけないという思い込み。そのような研究をするために、研究を始める前に、先行研究をしっかりと調べなければいけない、仮説をちゃんと立てなければいけない。そうしないと、研究を始めたら、すでに研究されたテーマだと気づいたら、あるいは、予想通りなデータが取れなかったら、困ってしまう。だから、そうならないように、始める前に万全の準備をする。準備が整えない限り始まらない。

そう。それは私の一貫したやり方。研究に対しても。人付き合いに対しても。何かを始める前に、失敗することを予測する。失敗への恐れによって、始まるのをためらってしまう。

そんな私に対して、英語論文の先生が「頭で考えるだけでは、何もう変わらない」と言った。また、修論指導のゼミで、指導教官とはこのような会話があった。

「○さんは、今の研究から何か得たいものがあるでしょう。」

「はい。」

「それは論文を書くのと別です。論文を書くのが仕事で、修論を書いて、この学校を卒業するのが目的です。」

「はい。」

「はい」しか答えられなかった。でも、大学院に入ったのは、研究することで、自分、そして自分と同じ悩みを抱えている人を助けたかった。他の研究者のように、楽しいからやっているわけではない。

次に大変だったのは、発表するとき、何を伝えればいいのか、何を言わなければいけないのかという選択が自分にとっては難しいと感じた。同じ先生の二つの授業をとっている。両方とも、英語の文献を和訳して発表する形だった。一つは、2年生の先輩と二人で、ある本から二章選んで、その内容の要約と、その章に出た英語の文献を一本選んで要約するという授業だった。もう一つは、同級生の二人で英語版のマニュアル本から二章を選んで、その内容を説明するという授業だった。

先輩と二人の授業では、一章の発表に当たって、先輩が発表日の前日から準備し始めているそうだったか、私は一週間前から準備し始めている。その差は、言語スキルの差によるものだと思う。先輩は日本人で、幼少期がアメリカで過ごして、去年ニュージーランドで交換留学した。その実力とは比べられないものだとわかっているが、「○さんと先生の二人がわかるような内容にすればいい」と気軽く準備しているような先輩に比べたら、私は英語の全訳をしたとしても、うまく伝わっていないなとしみじみと感じる。

もう一つの授業も同じ感じて、他の二人の発表では、いつも二枚ほどのレジュメだったのに、私の場合はいつも10枚以上になっている。レジュメの作成をしている途中でも、なんで二人がシンプルにできているのに、自分はここまでしなければいけないのとふと考えていた。でも内容の取捨選択がうまくできなくて、結局前と変わらずにほぼ全訳した形で発表してしまった。

最後の発表を終えて、先生に聞いてみた。なんで自分があの二人のように取捨選択できないのと。「完璧にできるまでいくつの段階がある。最初の段階ではきちんとやった方が評価が高い。そんなに焦らなくていいだって。○さんは焦りすぎ」と先生に言われた。

そう。焦りすぎるのも私。コツコツと頑張るのが苦手。受験勉強の時もそうだし、人付き合いの場合もそうだった。予備校にいたときは、周りと比べたら、自分が何もわからないはずがないと思っていた。現実の自分から目をそらして、理想の自分をずっと見上げていた。しかし、心の底では、本当の自分がわかっていた。だから受かる自信がない試験にも受けにいった。本当の自分の姿を偽りの自分に見せたかった。それ以外偽りの自分を説得させる方法がなかった。自分で恥をかく以外は。



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