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田中一村は”南の琳派”か?誰かに言いたくなる話 11

先日、東京都美術館の展示、「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」 “Tanaka Isson : Light and Soul”を見てきました。かなり以前に週刊朝日のグラビアで見て以来、この画家にはずっと興味があり続けていました。何度か奄美へ、田中一村記念美術館へ行こうと思ってはいましたが、時間とエアフェアを考えるたび、また何か奄美大島に用事があれば、などとありえない言い訳をして今日まで行かずじまいでしたが、この際一村の絵をまとめて見られて、まずは満足できました。
 
もちろん、関心の対象は奄美滞在時の絵です。それ以前の神童時代、東京美術学校を辞めてからの千葉時代、について一通りの知識はありましたが、当時の絵を見たのは今回が初めてでした。不遇時代(本人的にはほぼ一生不遇)の作は確かにうーんと唸らせられるものが多かったです。それだけに奄美時代とのギャップは著しく、一人の画家の成熟を目の当たりにした感があります。そして、今回会場のどこかで見たと思うのですが、この展覧会には「南の琳派」という惹句が付けられていました。言いたいことはわかるのですが、もしそう呼ばれたと知ったら田中本人はどう思ったかを今回は考えてみたいと思います。
 
実は、私、都美の前日には、「平八郎X琳派」“Heihachiro X The Rimpa School”というタイトルの山種美術館の展示を見ていて、さらに一か月前には「西崎光瑤 若冲を超えろ!絢爛の花鳥画」という京都文化博物館にも出かけました。かねがね福田平八郎はその装飾性、デザイン性などという言葉で紹介されることが多く、またこれまで全く知らなかった西崎という画家は師匠から光瑤という雅号を授けられる際に、光悦、宗達から始まり抱一、其一に連なるという尾形流なるいわば血統書のようなものをもらっていました。(会場に展示してあった)
 
琳派の琳はもちろん尾形光琳の琳で、尾形流も出どころは同じです。つまり尾形光琳、どんな美術教科書にも出てくる、「燕子花図屏風」「紅白梅図屏風」の作者です。ここはまずこの二作の思い切りのいい、明快で、かっこよく、誰にも伝わる描写を思い浮かべていただけると幸いです。
 
さて、このあたりからはいつものように現場、実物、感覚、直観重視の私の思いつくままを述べさせていただきます。
琳派とは何か?大和絵の伝統に基づきながら、装飾性、デザイン性の豊饒さを持つ、現代でも受け入れられやすいスタイル、とよく言われますが、はたしてそうでしょうか。別にデザインは絵画より下だとは言いませんが、これだけでは良さの半分も伝わっていません。私の思う琳派を以下に述べさせていただきます。あくまで素人の繰り言の域は出ませんが、しがらみなしのありのままは、保証します。
 
まず第一には「写実」“Reality”ということです。いきなりこんなことを言うのは少々気が引けますが、横山大観のことを琳派という人はいないということです。スパっと引いた線が、そしてその線がどれだけ輻輳していようが、乱れることなくものの形を正しく写していることこれが写実だと思います。すだれ、半透明の衣服、葦の葉、やめとこうと思えば描かなければいいんです。しかし腕のある人はしばしばこれを絵の中に入れてきます。
だいぶ前ですが、プロ野球を見に行ったとき、試合前の打撃練習で、当時ジャイアンツにいたゲーリー・トマソンがものすごい勢いでホームランを打ってました。こりゃすごいと思った直後、試合では三振の山、彼は典型的なホームランか三振かの打者でした。帰り道、一緒に行った友人との会話は今も憶えています。「しかし、練習であれだけ大きいの打てたら、狙うよな。お前だったらどう?」「いや、当然そうすると思う」
力のあるものは力を見せたいんです。これはどんな人間にもある当然のことです。ちなみにトマソンは、忘れたころに一発を放ちながら、次第に出場機会を失い、シーズンの終りにはアメリカへ帰りました。その後、何のためにあるのか(いるのか)わからないものの代表として、赤瀬川原平に“超芸術トマソン”という称号を贈られました。本当に腕のある人がその技術を見せるのがプロフェッショナルの世界です。トマソンではだめで大谷でなければということです。
話が完全にスピンアウトしましたが、ま、簡単に言うと、うまくなきゃダメということです。もちろんプロとしての技術の確かさが必要です。ごまかしは通用しません。
 
第二には「簡潔」“Simplicity”を挙げておきます。簡単ということではありません。言い換えるとすっきりしてるということでしょうか。ゴテゴテ、無秩序、夾雑、力感、厚塗り、これらと無縁であること、普通の人間なら気持ちが一新されるような、匂いなら柑橘系、音楽ならアントニオ・カルロス・ジョビン、味なら高級な白桃、季節なら冬の朝でしょうか。納得いただけない方も多いと思いますが、ここは私のnote、勝手なことを述べさせていただきます。
 
第三、「キレ」“Sharpness”。近頃の言葉でいうキレッキレというやつですね。日本酒の後のウィスキー、シングルモルトの一口、よく切れる包丁でアマダイの柔らかい身を捌く感触、突然投げかけられた複雑な設問に対し瞬時に正答すること、右打者の腰あたりに向かっていたボールが鋭く曲がり外角低めにストンと落ちていくスライダー、これしかないという線、色、形で構成された絵画。感覚的な物言いしかできませんが、感じは掴んでいただけたでしょうか。
 
そして四番目としては「垢抜け」“Sophistication”、こういう要素も必要だと思います。洗練、知的、洒脱、洒落、都会的、諧謔味、小粋、渋み、センス。先日、田中一村の帰りに、飛行機までまだ時間があったので、一休みがてら東博で常設展を、おっと総合文化展を見に立ち寄り、歌川広重の「名所江戸百景・浅草田甫酉の町詣」の猫に見入っていると、隣に立っていた二十代くらいの西洋人の男に声をかけられた。「Masterpiece?」そりゃ彼にはわかるわけない。絵に描かれた部屋は何をするところなのか、窓辺に置かれた手ぬぐい一本から何がわかるのか、なぜ猫は外の田んぼを見ているのか、熊手の説明は私の英語では手に余るので割愛し、伝えると、彼は大喜びした。そしてちょっと離れたところにいた、女性を呼び寄せ、説明を始めた。女性は冷静に頷いていた。そして私は今も浅草の裏手にはそういう施設が、、と言わなくてもいいことを付け加えた。女性は私の目を見ながら、頭を5度ほど傾けた。日本文化を海外に広めたいという純粋な気持ちで始めたのが、とんでもない結末を迎えたというお話です。別に広重が琳派だなどと言うつもりはありませんが、江戸という時代のソフィスティケーションを感じずにはいられません。
もう一つ、同じ東博にある「夏秋草図屏風」。江戸時代の姫路のお殿様の手になる琳派の代表作といえるものです。銀地(渋い)の二曲一双の屏風で、左には強い風に吹かれているススキなどの秋の草が描かれ、右では激しい雨に打たれていたであろう百合など夏の草がうなだれています。よく知られているようにこの絵は尾形光琳の「風神雷神図屏風」の裏に元々は描かれており、風神の風で秋草が吹かれ、雷神の雨で夏草が打たれたという作りになっていました。(現在は表、裏に分かれている)さすがに洒落がきいています。こういうのも琳派の要素だろうと考えます。
 
最後に、「斬新」“Originality”。古来、日本において芸の伝授は一子相伝、家族間または師弟間の密接なつながりの中で行われてきました。文字通りのスクールです。当時は、今のような交通手段、情報伝達手段がないのですから、方法はそれしかないはずです。
ところが、The Rimpa Schoolにおいては時空を超えた伝承がなされていました。西崎光瑤展にあった尾形流の系図によれば、最初の人物として本阿弥光悦、俵屋宗達が併記され、次に尾形光琳、そして酒井抱一、という順に名前が並んでいました。光悦は江戸時代の初めころの京都で書、陶芸などの一流文化人であり、宗達は同じころの京都で、絵師として「風神雷神図屏風」「松島図屏風」を制作しています。尾形光琳は約100年後に同じ京都で「燕子花図屏風」「紅白梅図屏風」を、そしてまた酒井抱一はそのまた100年後に江戸で姫路藩の次男として生まれ、「夏秋草図屏風」、「十二か月花鳥図」を描きました。そして3人ともに「風神雷神図屏風」を描いています。いわゆる私淑で、直接教えは受けないが、尊敬し手本として学ぶことで、伝承が図られています。もちろん明治以降の日本画家にもいたるところで、画家自身が意識的かそうでないかはあるにせよ、その影響を見ることはできます。つまり琳派には学校のようなものがあるわけではなく、ただ作品の鑑賞から得た印象のみを頼りに、自らが描く絵にそのエッセンスを落とし込んでいくという歴史だったのでしょう。
しかし一流と言われる人たちは、もう一段上ります。彼らは伝統を踏まえた上での、独自性を確立しています。誰が描いた絵か、見ればすぐにわかります。絵ほど剽窃を見つけやすいものはありません。構図、筆触、色調、場合によっては画題まで、似せたものはすぐにバレてしまいます。当たり前ですが、こういうものに評価というものはありません。世間には夥しい数のこの手のものがあるようです。
 
やっと、田中一村に戻れます。七歳で南画でデビューです。本名は孝ですが、彫刻家の父から米邨という名前をもらい(推測ですが数え年八歳なので”米“だったのかも)、そんな子供が描いたとは信じられない絵です。八十歳の老人が描いたような絵です。南画というのは文人画とも言い、基本は水墨で、色はついても薄く、理想は仙人のような生活ですから基本的には、子どもとは相入れません。孝少年はこういう感じで描けと言われれば、すぐに描けたと思われます。本質を理解していたとは、到底思われません。思い起こすのは、子ども時代の美空ひばりです。物珍しさ8:実力2といったところでしょうか。その後、東京美術学校に入学しますが、二か月で自主退学、南画を描いて一家の生計を支えるが、二十三歳で日本画に転向、鳴かず飛ばずの日々が続き、三十九歳で「白い花」が青龍社展に初入選。しかし翌年出品した二点のうち一点が落選すると、自ら縁を切り、その後は中央の画壇では落選を繰り返し、五十歳で退路を断って奄美大島へ移住、以後その地で十九年間、働きながら奄美の絵を描き続けました。
この略歴を見て感じるのは、才能のある人にありがちなプライドの高さと依怙地さ、そして内心では痛いほどわかっていただろう、独自性の探求です。戦後の日本では、幼いころから親しんだ南画はすでに時代遅れの遺物と化し、日本画の世界には重鎮たちとエリートの養成所出身の俊秀がひしめきあい、もはや少々のことでは自分の入る余地はないという諦観を抱えての奄美移住だったと思われます。奄美には本土で目にすることのない多種多様な生物がいる、そこなら誰も見たことのない絵を描けると思ったのではないでしょうか。
結果ついに一村は斬新さ、独自性を掴んだと思います。誰も見たことのない絵が確かに出現しました。一村も歓喜したと思います。あとは評価されるだけでした。
それほどまでしてたどり着いた境地を“南の琳派”と呼ぶのはどうなんでしょうか。多分一村は嫌がったでしょうね。俺は一村派だと。それでは実際どうだったのか、先ほどの琳派の条件に従って一つづつ見ていきましょう。
写実。素晴らしいです。有名な「アダンの海辺」の画面の一番下の海岸の描写は本当にすごいです。石が覆う浜をこんな風に描いたのは見たことないです。
簡潔。画面には多種多様なものが描かれていても、いらないものは何もない。一見無秩序な自然そのままが描かれていても、ゴテゴテした感じはないし、全体にスッキリした感じです。この感じはどの絵でも共通しています。
キレ。あります。一番よく分かるのは枇榔樹というヤシ科の植物の葉ですね。緑色で細長く一枚ずつが微妙に異なる円弧を作りながら垂れ下がり、また風や雨でも変化の起きやすい種類です。ほかに葦、すすきなども同様の葉を持っています。多分描くのは相当難しいと思います。上手い、下手のはっきりわかるものでしょう。多分硬いでしょうが、アダンも同様の葉を持っています。上部の葉は勢いよく天を向いて伸びていて、実のついている下の方の葉は、鋭い葉先はそのままに、折れかかり下を向き始めていて、その中間の葉と合わせて、見事にキレのある風情をを描き出しています。
垢抜け。率直に言うとありません。洒脱、知的、都会的、こういう要素は似つかわしくはありません。奄美に行ったということだけで、すでに浮世離れしていて、脱俗し世間の垢はなくなっているとか言えないことはないでしょうが、ここは普通に考えておきます。何というか、余裕は感じられません。私は、一村本人が描き貯めた奄美の絵を持って、中央凱旋を願っていたことを否定したくはありません。すべてを諦めて奄美での生活を送っていたとは思えないので、浮世からは離れてないと考えます。
斬新。先ほどついに奄美で一村は独自性を勝ち得たと言いました。確かに見たことのない絵を見せてもらいました。この言葉に嘘はありません。ではなぜ“南の琳派”など旧来の派閥の一員のように呼ばれたのでしょうか。苦労を重ねてやっとオリジナリティを獲得したのに、展覧会のうたい文句として、作家に失礼ではないのか。
 
緑の細長い葉を持つ植物のキレのある描写、身もふたもないこと言えば、これは琳派です。そして誰が見ても(会場の多数を占めるシニア割引の年配者に代表される一般人)「まあ、キレイねぇ」と言わしめる絵、それは琳派です。一村は別に琳派の末裔になろうとしたわけではなかったでしょうが、結果的にはそうなっていました。そしてそれこそが時空を超えてつながる琳派の継承だと思うのです。田中一村:南の琳派、いや、悪くないと思いますよ。

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