「キネマの神様」に違和感を感じたのは僕だけだろうか。これはコロナ禍で映画業界が受けた問題作なのではないか。
「キネマの神様」から受けためまいのような感覚は、いったいなんなのだろう。未だに引っかかってる。これは近年稀な不思議な体験だった。
フィクションとは何なのか、映画とは何なのか。作り手はこれをどこまで考えていたのか、そもそも狙っていたのか。空中分解しそうなプロジェクトをメタ構造にしたことで、なんとか形は整った。
でも、これって松竹100周年の記念映画なんだよな。
企画段階は華やかだ。①山田洋次監督作品②蒲田撮影所を舞台③映画を愛する人たちへの讃歌④人気作家原田マハの小説が原案⑤菅田将暉と志村けんが2人1役…ここまではよかったが、Covid-19の猛襲により、プロジェクトは大被害を受ける。
結果どう変わったか。沢田研二が志村けんを演じた。代役…というより、沢田研二が志村けんを演じてるかのようだった。これ、すごい仕事ですよ。なぜだろう、「セレブリティ」でケネス・ブラナーがウディ・アレンを完コピしたのを思い出した。憑依したかのような、というと大袈裟かしら。
志村けん降板後、映画業界はウィルス感染影響で映画館は存続危機にみまわれ、物語の展開が変わった。思い出の映画館がつぶれそうだから、クラウドファンディングで寄付を集めよう。政府にもはたらきかけよう。映画愛映画を目標としていただろうに、志村けん急逝を受け、「松竹100周年記念映画」は、「どんなことが起きても映画を愛することが幸福なのだ」のメッセージを押し出しながら、歴史に残る怪作(珍作)として存在することになった。公開も遅れたわけだし、松竹100年はこんな形で歴史に記録されることになったのか。
正直なんじゃこりゃ、ですよ。いやはや。
最大の違和感は、志村けんへの献辞である。掲げられた「ありがとう」ってどういう意味だろう。志村けんは惜しくも出演できなかった主演俳優…なのである。沢田研二の名演(あえてそう呼ぶ)は、志村けんがやったであろう芝居をする(と我々は想像させられる)。劇中、誰もがドン引きしてしまう「♪東村山~」を志村けんが本当にやったかどうかはわからない。でも、観客は沢田研二を志村けんに脳内置換して見てしまうことになる。志村けんがそこにいるかのように。さらに付け足すと、松竹映画100周年と志村けんは関係ないですよ。松竹が製作したドリフ映画は16本あるが、メンバーとなった志村けんがクレジットされるのは最後の4本だけである(荒井注が抜けてから)。志村けんはコメディアンであることを貫き通し、俳優としてドラマや映画にはほとんど出なかった(声優はやってる)。映画「鉄道員」は、高倉健直々のオファーで断れなかった、という逸話もある。
僕はタレント志村けんファンとは言えない。夢中だった「全員集合」は小学校高学年で卒業、「加トちゃんケンちゃん」「大爆笑」「バカ殿」「だいじょうぶだぁ」などは世代ではないのであんまり見ていない。深夜枠の酒飲み番組も、時々ザッピングする程度。テレビの笑いが去勢していく中で、志村けんが窮屈になっていくのを見ていられなかったのかもしれない。
「キネマの神様」は、ビッグタレント志村けんの存在を前出しすることで、物語に没入することが困難になってしまった。怪作(珍作)というのはそういう意味である。
映画の最後、あらためて志村けんへの「ありがとう」が大々的に表示される。お笑いタレント志村けんへの追悼は、フジテレビがやるならわかるが、松竹映画が“のっかる”ことではないような気がする。そもそも出演していないんだから。なんか宣伝のために歪ませてる感じがなくもない。志村けんは病気のために出たかった映画をあきらめた。その思いを組むのだとしたら、「志村さん、こんな映画になりましたよ」とひっそり届けてあげるべきだと思うし、だとしたら「Covid-19でメチャクチャになった世界の暗い映画」が正解ではなかったんじゃなかろうか。この映画、少なくとも終盤に向けては、からっとした笑いと涙を見せてほしかったんだよな…。このことに何も触れない沢田研二が、僕は何よりもかっこいい、と思っただけだ。
そういった考えを背負っていなかったら、本作はそんなに悪い映画じゃない。真面目でおかしいのに、とてつもなく悲しくて暗い、それでもちゃんとしたプロの映画であった。また、絶対に忘れてはならないのは永野芽郁の昭和顔のすばらしさだ。大衆食堂で働く女の子が実によく似合っていた。あ! 彼女が歳を取ると、宮本信子になるのか…。