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災害ルポ 令和6年10月6日の珠洲市のいま・・・【街の中心部(飯田町、野々江町、正院町)編】
珠洲市の中心部である飯田町、その地区と隣接する正院町の能登半島地震から10ヶ月経過した現況を取材した。
地面が波打ち、破損したままの漁港
珠洲は人口1.3万人の街である。本州で最も人口が少ない市となって久しいが、1950年代には4万人近い人が暮らしていた。意外にも山地が多い能登半島において、珠洲市の富山湾側(内浦)には平野が広がっていたためである。この平野の中央、若山川の河口に面して広がるのが、現在の珠洲市の中心になっている飯田町だ。
飯田町の港湾部を歩くとかなり道路事情が悪い。未だ手付かずのままである。
地面が隆起しているのであろう、アスファルトは割れ、段差が至る所にみられ、地震の影響の大きさがわかる。
駐車場には「国交省」などの災害復旧の関係機関の車両が辛うじて破損が少ない箇所に駐車されていた。
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17:43。飯田町の街中はひっそりとしていた。
商店街の建物の多くは外壁の破損、倒壊がみられる。「閉店」や「休業」の札が掲載されたお店をいくつか見つけた。
既に薄暗い時間だったが、建物内や玄関、出入り口に灯りがあるところは少ない。
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バラバラの鳥居と倒壊した神社の社殿
飯田町の近所である「野々江町」を訪れた。
道路沿いに「菅原神社」があったが、白く、綺麗な鳥居が落下し、バラバラな状態。
社殿も屋根を残して圧壊していた。
地域の方に親しまれていたであろう神社が無惨な姿のまま、残置されている情景は現実感を失う。
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隣接する「正院町」は「野々江町」と殆ど同じ状況。
今回は飯田町、野々江町及び正院町の順番で巡視しているが、写真撮影したものはほんの一部で、道路沿いから視認した建物や家屋は連続して被災がみられた。
被災家屋応急危険度判定による「危険」などのステッカーは道路から見えやすい位置に貼ってある。
「正院第一団地仮設住宅」という標識があり、整然と仮設住宅が並んでいた。
被災した方は今でも、自宅を離れここで暮らしている。
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途中、自転車に乗った部活帰りの中学生らしき少年とすれ違った。「こんにちは」。筆者に礼儀よく挨拶をしてくれた。
この地区に生まれ育った純粋な少年であると感じた。
1日も早い復興を願いたい。