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飲んだ後の〆の中華そばを食べながら震災を振り返る(R7.2.14)
新規の焼肉店「ホルモンKAWARA」で美味しいホルモンとお酒をいただいた後、ついつい食べたくなる〆の一品を求めて、蕎麦屋「やぶ椿」に行くことにした。
↓参考
やぶ椿
このお店は夜7時30分から開店しているようで、お酒の提供もあることから夜飲みに来られる方や、我々みたいに〆の蕎麦を食べにくる方がほとんどである。
残業終わりや夜遅く食べたいときにもここなら開いているということで、地元の方はよく利用している。
飯田商店街の一角にある手打ち蕎麦処。元気のいい女将さんが一人でやっておられます。女将さんが打つそばはもちろん美味ですが、手作りの餃子もおすすめです!一つ一つ丁寧に作った餃子は春雨入り。外側の香ばしい食感と、中の春雨の優しい食感が2度楽しめます。
雪の夜に彷徨いながらなんとか入店できた。
カウンターと小上がりにそれぞれ1組のお客さん。ワイワイ話していた。
人数分の中華そばと1つのギョーザ、2本の瓶ビールを注文する。
女将さん1人のワンオペだったが、てきぱきと注文を聞いてくれて料理を出してくれた。
中華そばの暖かさがさっきまで外にいたせいで冷え切った身体に染み渡る。
豚骨や鶏ガラの旨味がしっかりと感じられて、まろやかな味。〆の一品としてちょうどよい。
震災の話
中華そばを食べながら地元の同僚が震災関係の話をしてくれた。
・今年の正月は1年前を思い出して不安だったし、なんか変な気分になった。「何もなかったねぇ」と正月に知り合いと話しているのがすごく違和感があった(近所の小さい子供がそんな感じで話していて余計にそう思った)。
・地震発生後、やぶ椿のある飯田地区にはすぐに津波接近の放送が流れ、皆急いで高台の飯田小学校付近に避難した。正月だったので何が何だか分からなかったが、直感で冷たい海水が来ると感じたそう。
・飯田小学校には数百人が避難しに来た。正月だから帰省している人の分も増えておりかなり多いと感じた。
・すぐに備蓄食料の配分、トイレ、暖房の問題等に直面する。トイレは3日間我慢した。
・地震から翌日の1月2日にはズタズタの道路を越えて個人ボランティアの車が現地入りしているのを見た。慣れなのかもしれないが、これはすごいと思った。
・避難している人のニーズは毎日変動した。昨日までこの物品が必要だったものが、次の日には要らなくなっている。一時も休まらない。余震も続くため眠れない。
・歯磨き粉があったが「水」が無いため使いずらい。平時編成の物資ではこういう時に状況に対してマッチしないと感じた。
・偶然誰かがもっていた「マウスウォッシュ」が役立ったが、こういうのは平時編成の頭では思いつかない。災害地域からのノウハウ伝授が非常に重要である。
・ガソリンスタンドは1軒が緊急車両向けとして制限された。残りのスタンドに住民の方の車が殺到。500m以上もの長蛇の列。これ以外にも何もかも不足。
・食料はどうにかなったが、「ロングライフパン」が関係機関から永遠に届けてくれた時には、さすがにこたえた。美味しいんだけど、毎日チョコパンはちょっと…。だが、ありがたく頂いた。
・しかし、海沿いでは漁師の親父さんが魚をさばいており、網で焼いていた。井戸もあって水はあるし、米も薪もあって生活は普通のようである。自給自足を取り入れている方はこういうときに強いし、珠洲だからこそ、こういうことが可能ではないかと、その時の感じを強く覚えている。
・同時に、首都圏や都市部ではこういうことはほぼ無理だと感じた。「街中で魚を捌いて生活していけるか?」無理だろう。
まとめ
他にもかなり長くしゃべってもらったが、時間がきたので今日は解散した。
恐らくもっと苦労があったのだろう、話しているときの雰囲気でわかった。
口伝ではあるが、一部についてnoteにまとめてみた。