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【アゼルバイジャン暮らしの日記】外国語は私の窓。

2024年1月12日

朝起きるのが億劫で、やっつけ仕事で夫のお弁当。今日は焼きそば(カッペリーニ、キャベツ、人参、玉ねぎ、ベーコン、ソース味)。

朝、ジムに行ってのんびり体を伸ばす。これが習慣になればいいな。朝のサウナも心地よい。そのあと少し眠くなるけどね。

美しいシェキ・ハーン宮殿の装飾。アゼルバイジャンにはシェベケという木製のステンドグラスの技法が残っている。

お昼は、大好きなエスミラさんと待ち合わせ。エスミラさんは、長年アゼルバイジャンの小・中学校で日本語を教えていらっしゃる。ソ連時代からの美しいインテリゲンツィアの伝統を体現したような方で、芸術や文化に造詣が深くて、自身はもともとは数学者、旦那さまは物理学者で、かつて日本の大学でも教鞭をとっていた。その関係で、エスミラさん家族は数年を新潟や大阪で過ごし、彼女は今も日本のことを深く愛してくれている。

久しぶりに、ランドマークホテルの日本食レストラン、瀬戸に。このお店はかつて日本人のオーナー夫妻と、鉄板焼きが専門の日本人シェフがいたのだけれど、コロナ禍でみんな帰国してしまった。エスミラさんも、昔はよく来たのよ、って懐かしそうに言う。味噌汁や、鶏のカツを食べながら、楽しくおしゃべり。前半は日本語で、後半はロシア語で(私の練習のため)。普段、街で話しているロシア語は、通じればそれで良しなのであまり進歩はないのだけれど(多少の語彙は日々増えるにせよ)、エスミラさんのような教養高いマダムと話していると、いろいろな表現が学べる。バクーのオーケストラの話や、週末のプルシェンコのステージ、3月に来るピアニストの話などをしたり、日本の思い出話やアゼルバイジャンの好きな地方の話をしたりする。化粧品は、資生堂に限るわ、なんて話題も。最後にエビフライのお寿司が出て、お腹いっぱいと言いつつも完食。揚げ物が多めだけれど、美味しい昼食だった。エスミラさんが、お味噌汁は(最初ではなくて)ごはんものと一緒に食べたいわ、と日本人みたいなことを言うので、ふふふふと笑った。

夕方は、日本留学経験者の皆さんを招いたのレセプションへ。またまたソ連時代の知識人たる大御所から、今年大学を卒業する若い方まで、ずらりと50人ほど集まってくださって、華やかな会だった。この間の雑誌記事の取材のときに、お世話になった通訳のギュルナルさん夫妻にも再会できたり、このあいだ着物の着付けをしたナズリンさんやギュルシャンさんたち日本語学校の先生たちにも新年の挨拶ができた。ナズリンさんは、チャイナドレス風のワンピースに袴を素敵にアレンジして着こなしていて、そういう独創性って素敵ね、と称賛する。明治の女子教育の黎明期以降、活動的で自立した女性のシンボルともなったえび茶の袴にブーツ姿の女学生のファッションの話などを紹介しながら。

シェキ・ハーン宮殿の外壁には、壮麗な装飾がびっしりと。

私はマスタード色のボウタイブラウスに、チュールスカート、ネイビーのツイードジャケットという装いにしたのだけれど、きらきらのビジューのヘッドドレスを着けて、華やかに。初めてお会いする人たちには何度も「あなたは日本人ですか?」と聞かれる。きっと服装が違うのだろうね(他のみんなは黒のワンピースやダークスーツだ)、と言ったら、ギュルナルさんが笑って、立ち居振る舞いが違いますよ、タマキさんは国際的な人という感じです、と言ってくださる。とても素晴らしいですよ、と微笑んで。私はそれがうれしかった。

日本語、ロシア語、英語とくるくると取り替えて、ゲストの皆さんと話していて、外国語は本当に自分の心の糧だったことを思い出す。14歳の頃、校則だの上級生との上下関係だの勉強だけではない窮屈な中学生生活に本当に嫌気が差していて、ここではないどこか遠くへ行きたいといつも希求していたあの頃、私はいつも外国語を勉強していた。当時まだ社会主義国だったチェコのプラハに住む同じ14歳のお友だちと、学校のこと、自分の国のこと、夢のこと、その全部を薄青の便箋にびっしりと書き込んで語り合った。父が買ってくれた短波のラジオで、モスクワからの放送を聞き始めたのもその頃。外国語は、見知らぬ遠くの世界と自分を繋いでくれる窓だったから、勉強するのを苦に思ったことはない。それは今も同じで、通り一遍の旅行会話ではなく「語り合える」言語を多く持てることは財産だ。そんなことを、この多言語話者ポリグロットの集まりで話すと、みな一様に深く頷いてくれる。みんなそれぞれ、自分の手でその窓を開いてきたのだから。

以前、河出書房のこちらの本の中で、外国語と私について書いたことがあります。14歳に贈る、というこの本のコンセプトも大好きでした。

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