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「鎌倉殿の13人」のホモソーシャルとミソジニー

ゆうべ放送された「100分deフェミニズム」で、「鎌倉殿の13人」についても言及があったようですね。

上野千鶴子 「男にとって最高の喜びは、女に愛されることではなく、男社会の中でライバルの男たちから、「おぬし、できるな」と認められること」
鴻巣友季子 「たとえば『鎌倉殿の13人』の三浦義村は『この女を落とすことで頼朝を超える』と」
上野 「わかりやすい男ですね」

ホモソーシャル(男同士の社会的連帯)の中で、女がモノのように取り扱われるミソジニー(女性蔑視)を描いているシーンですよね。

現代の実社会がホモソーシャルとミソジニーの土台の上に立っているので、鎌倉時代を描くときにもそういう描写があるのはしょうがないけど、問題はそれが作中でどんなふうに機能しているかってことなんですよね。

三谷さんが書くホモソーシャルやミソジニーは、基本的に「笑いどころ」「男のかわいげ」でしかないからモヤつくんだと思う。

小四郎が若いころから「女はみんなキノコが好き」だと思い込んでいて、
最終回で死を目前にして、義村に「あれは嘘だ」とバラされ、「そうだったのか!」と瞠目する場面。あれがモヤついたのもそういうこと。

幼なじみの小四郎を超えられなかった平六(三浦義村)にとって、「俺のほうが女を知ってる」というのは数少ないプライドのひとつであり、裏を返せば、小四郎の「かわいげ」になってるんだよね。

頼朝が見境なく女と寝ようとするのも、小四郎が女に不器用なのも、「権力者だけど、ひとりの男としてはダメな奴」という描写であり、ひいては「そんなふうにダメなところがある、人間くさいかわいい奴なんですよ」
というエクスキューズになってる。
最終回の最後の最後まで、それを「キュートな場面」としてひっぱってる。

仮にも順番に3人の妻をもったんだから、キノコが好きかどうかなんて、本人に聞きゃ一発じゃん。
「女ってキノコ好きなんでしょ?」「おまえ、キノコ好きか?」 って。

一生しなかったんだよ。気づかなかったんだよ。
妻という近しい人間と、真正面から接してないじゃん。
そんなのただの不誠実な奴じゃん。むしろホラーじゃん。
まぁ、その不誠実がたたって妻に毒殺されるわけだけどさ。

「誰にでもそんなふうに欠点があるもので、だからこそ愛すべき人間なのです」とは解釈できないもんがあったよ、鎌倉殿って作品には。

夫に毒を飲ませるのえ(菊地凛子)のほうはどうかというと、登場時から一貫して愚かで浅はかな女として描かれていて、その浅はかさがコメディタッチに描かれて視聴者を笑わせることこそあれ、小四郎における「キノコ」のように「その浅はかさが彼女の魅力」「彼女のかわいげ」という表現にはなってないんだよ。

てか、のえの良いところなんてほとんど描かれてないんだよ。
最後は夜叉のような顔で夫を罵り、捨て台詞を吐いて追い出されていった。

あまりにも非対称すぎるじゃん。だから私は圧倒的にのえの味方をしたいんだよ。

小四郎は、直接的には妻に毒を盛られたのをきっかけに死に向かうんだけど、それも、途中から「妻に対する不誠実」という報いが消滅してるんだよね。
多くの御家人たちを粛清し、あまつさえ鎌倉殿まで見捨てたから、
まるでその報いを受けて死んでいくような描写に読み替えられていく。それも、本人の意思ではなく、鎌倉を守るため、頼朝の遺志を受け継ぐため仕方なかったんだ、と。

そりゃそうだよ、そうなんだけどさ、これじゃ毒を盛ったのえが浮かばれないじゃん。
毒を盛ることさえ、物語を進めるための記号でしかないじゃん。
毒を盛ってさえ、存在が消されてるじゃん最後には。

この作品の、女ってものの扱いを象徴してるよね。

そして、小四郎に引導を渡すのは政子なんだけど、それは、少なくとも半分は「赦し(許し)」であり「救い」として描かれてたよね、確かに。
そりゃ政子は頼朝の妻だから、小四郎がこうなった責任の一端はもってるかもしれないけどさ。

ほんと、女を記号にしながら女に甘えてるよなーって思う。

三谷さんは無意識に書いてると思う。
完璧な構成とディテールを備えた稀代のストーリーテラーだけど
無意識のホモソーシャルとミソジニーが染みついていて、それに基づいた作劇なんじゃないかなと思う。
「エルピス」でのセックスやセクハラの描かれ方とは全然違う。

でも、そんなの全然三谷さんだけじゃなくて、作家に限らずこの世の中がずー--っとそうだったんだから、まあしょうがないんだよね。
視聴者ですら、いまだに違和感をもたない人が多いんだろうから。

ジェンダーについて特に学ぶ機会がなくても、いま海外で人気の映画やドラマを見たり、小説を読んだりすると違和感をもつようになるから(もちろん、日本にもありますが)、文化や創作、表現ってすごく大事なものだと思う。

逆にいうと、鎌倉殿みたいな作品が批評的に読まれず絶賛だけされてたら、変わらないってことだと思う。
いや、ほんとにおもしろかったし、好きなんだけどさ。

「100分deフェミニズム」の番組内で示された画像(フリップ?)だそうです。

そのとおり、異性愛の男には、ホモフォビアとミソジニーとホモソーシャルが染みついてるから、結婚してる女にとっては、一生の相剋だと思う。
自分が属する性別を蔑視して、男同士で認められることのほうに喜びを感じる男を、どうやって愛するか。

だから、夫を愛さない(あきらめる)女もたくさんいる。
夫を変えようとする女もいるけど、大概成功しないw

いちばん多いのは、
夫のミソジニーとホモソーシャルに気づかずに生きることじゃないかな。
世の中の仕組みも思想もすべて男中心にできていて、女もその仕組みと思想の中で育つから、気づかなくても当然で‥‥。
ほかには、夫のミソジニーとホモソーシャルを見て見ぬふりをしながら愛することかな。

上野千鶴子が
「若いころ、どぶに捨てるようなセックスをさんざんしながら(本人が著書で書いてます)」一度も結婚しなかったのは、すこぶる筋が通った話だと思うんよ。

私はジェンダーをちゃんと学んだのは子どもを産んで何年か経ってからだけど、経験と読書その他から、うっすらと意識があったので今思えば、ミソジニーとホモソーシャルが極力薄い男を選んだと思う。
ゼロじゃないよ当然。夫も異性愛の男だから。

でも、夫がうっすらもってるミソジニーやホモソーシャルを、全否定もできないと思ってる。
彼個人の責任じゃないし、夫も生身の人間だから、全否定は夫の人格否定にもつながる気がする。

夫のミソジニーとホモソーシャルを(たまに)見つめながら、自分の尊厳はいっさい否定せず否定させずに、夫を愛する。これが、私のテーマのひとつだな。

‥‥って、今書きながらふと筆が滑っただけで、一生懸命考え続けてきたわけじゃないけど、たぶんそうだと思う。これまでもそうしてきたしこれからもそうだと思う。

夫って、いちばん身近な他者だから。
他者とどうかかわって生きるかがあらわれる。
(ただし、あきらめざるを得ないようなひどい夫が少なくないのもよく知ってます! 本当に、少なくないよね)

「100分deフェミニズム」の中で、鴻巣友季子が
「リベラルな人たちは 【横の旅=海外を見ること】はするけど、【縦の旅=ご近所と話をすること】が大事なんじゃないかと言われます」
と発言したらしいけど、ほんとそうだと思う。
現実には、リベラルを自認する人の排他性を感じることも多い。

横の連帯は希望をくれるからめちゃくちゃ大事だけど
なんらかの「縦」つまり、溝のある他者と、どうかかわっていくか。
(傷ついている人は無理しちゃダメです!!! できる人がやっていくことです)

こんなふうに書くと、なんかめちゃくちゃ大ごとみたいだけど、実際は、そんな大したことでないようにも思う。
人は絶対違うから、ときに溝があらわになるのは当然で、そんなとき
・相手を自分と同じ尊厳をもった人間として見る、扱う
・自分も人間だってことを忘れない、卑屈にも尊大にもならない
ってことかな。

番組をまだ見てないのにこんだけ書くってどうなのよ私w
Twitterで #100分deフェミニズム タグをざっと見たけど大変濃い内容のようです。
ただし、インターセクショナルや性的マイノリティ、セックスワーカーについての視点に関して批判も出ているので、見る人はちょっと気にしてみてください。私も近いうちに録画を見ます。
番組について感想おしゃべり会やりたいね!!!

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