チャイコフスキーはいいぞ〜
ロシアの音楽がすきだ。
チャイコフスキーやストラヴィンスキー、ラフマニノフ、リムスキーコルサコフ。ロシアの作曲家たちはみんな曲に針葉樹林の葉の澄んだ香りとしんしんとした雪の美しさをもっている。曇りは鉛のように恐ろしく重たく、たまに射す西陽はトパーズのように美々しく暖かい。松の香りの緊張感、雪夜の深潭、暖炉の安寧。まだ見ぬロシアの地理気候に暮らしと匂いを想像させてくる。根底にある深い絶望、寒さと寂しさ。一方で、自然の美しさやいつかやってくる花咲く季節に希望をみつけ、家族の手の温もりや夏の日の楽しい思い出を何度も思い出し心を自ら励まし続けるのである。そういったものたちに救われたり救われなかったりしている姿はヴィヴィッドに“くねくね”している。
わたしが中でも好きなチャイコフスキーの曲を3つ!紹介しちゃいたい。
まず、指揮者について。個人的に、ペトレンコとカラヤンがチャイコフスキーの美しさを最も引き出しているんじゃないかなあと思う。
ペトレンコが指揮するチャイコフスキーは、夜空に光る星々が次々に流れ降り注ぐような感覚になり、煌びやかで美しい。情景的なチャイコフスキーである。
カラヤンは、チャイコフスキーの躁と鬱をより引き出しているのではないかと思う。チャコフスキーはときに明るく鮮やかな瞬間があるが、それは病的であればあるほど美しく感じる。カラヤンはその躁転をしっかりと躁転させてくるのだ。たとえば、幻想交響曲のアヘンでゆめみたワルツ。たとえばスケルツォ。盛りあがりの天井知らず的なところが本当においしくて気持ちがよい。作者、演奏者、聴き手、による三位一体ドーパミン異常分泌は共感性が極めて高まる。
ロシアの作曲家の明るさ暗さって、フランス周辺の絵画的・耽美的な音楽たちやドイツ周辺のロマン溢れる哲学的な音楽とは違うし、イタリアの感傷的さや愛に生きるような強さのある音楽とも違う。なんだか、理性がやや欠けているような明るさ暗さを感じてしまう。感情のままに暴走しているというか。それはそれでいいじゃん、的な。そのまま享受するから別に救いとかもないし意図的なものも少なくて自然や感情をいい悪い関係なくそのまま的というか。自分を客観視する暇もなくずっと主観的な感じがする。他の国のクラシックたちはもっと客観的な瞬間があったりなかったりするけどあくまで自分の目を通した風景と自分の心を通したものの味方なんだよなあ。難しい。わかんないです。でも、小鳥を見た時に、その小鳥の様子をそっくりそのまま写生するように描くわけでもなく、小鳥の気持ちを想像するわけでもなく、小鳥をみてかわいいーって思った気持ちとかわいい仕草をかくみたいな、そんな感じが特に強くする感じがします。
わたしは音楽の専門教育を受けていないのでこんなふうに語って正しいのかわかんない。しがないクラシックリスナー(25)としてのひとつの感じ方の問題とゆうか…。いち地球人の意見とゆうか…。ほんとうに何も知識のない感性が異常な人間が何度も繰り返しきくうちにそういう感じがすると悟ってしまった一件なので…。
個人的にはその辺を特に引き出してほしいなあ、って……。ペトレンコとカラヤンはそれが当てはまっている気がします。少なくともわたしの解釈に。
書いてる間に1000字超えました。
いくらでもしゃべれる。わたしと夜通し長電話してこの件について聞いてほしいくらい。おしゃべり下手なのでしゃべりませんけどね。泣
好きな曲、3つ、つぎに。いいます。