肥満への批判と孤独感
The English version is here: https://note.com/consequelogy/n/ne147a568b95f
肥満に対する批判と孤独感についての考察を述べます。
【まとめ】
・他人の肥満を批判したくなったら、自分が他人を評価する傾向があるか検討した方がいい。
・他人に対して評価し、他人から評価されることを求める価値観は、生きづらさを助長することがある。
・社会から評価されることに価値を見出すなら、所属する集団を慎重に選ぶことが自分の幸福感につながる。
【本文】
最近、日本人が肥満に対してネガティブに表現するのを聞きながら、日本文化の中で「痩せている」ことは「自分を律することが出来る」ということを一見で表現する手段となっているな、と考えています。
個人的には、肥満は生活習慣病のリスクを増すし、関節への負担から歩行障害を起こすので、避けたいな、とは思いますが、かといって、肥満であることは、他人がとやかくいうようなことでもない気がするんですよね。
だけど、多くの方が口を揃えたように躊躇せず肥満を批判するので、興味深く思いました。
日本は、社会性を重んじる文化だと言われます。
この文化は、社会の各構成員が、社会を乱さないか相互に見張るということにつながるため、日本人は他人を評価することをためらわないように感じます。
会社で人事を経験した人ならばわかると思いますが、他人への評価は、評価する側の見識が問われる高度な技術なのですが、日本人は、割とカジュアルに他人を評価している印象を受けます。
社会の構成要員を取り締まることは、自分のためではなく「社会のため」、すなわち「正義」だとみなす人が多いために、他人を評価する技術があるか検討をせずに、他人に評価をすることが認められているのではないかと思います。
日本人にとって、痩せていることは、自分が己を律して社会に適応できることを表現する手段であり、肥満を糾弾することは、社会の維持に貢献する手段だと認識されているのではないでしょうか?
僕は、この、社会に適応できているかどうかを重視する価値観が、日本人の孤独感に影響しているという仮説を立てています。
なぜなら「古典的日本社会」が、破綻しつつあるからです。
僕は、日本に限らず、〇〇文化は、と語るとき、基本的に、その社会のマジョリティ(実人口ではなく、発言力の強い人)の価値観が優先されていると想定しています。
2024年現在の日本のマジョリティは、変化の過程ですが、「大和民族」「壮健」「教育レベルの高い」「異性愛」「男性」を想定しています。
属性が多いので、ここではこれらを満たす人々を「古典的マジョリティ」と呼びます。
いわゆる「日本的価値観」とは、古典的マジョリティが生きやすい社会が成立するための価値観だと考えています。
「〇〇文化イコールその文化をもつ集団のマジョリティを優先した価値観」であるのは、どの文化でも同様で、文化ごとにマジョリティの属性が変化するだけです。
実人口的には古典的マジョリティの方が少数派なのに「マジョリティに庇護される準マジョリティポジション」、例えば、低賃金でも従順に働く労働者とか、感謝されなくても家族を支える貞淑なヨメとか存在するのでフクザツ。
各文化ごとに、マジョリティ達は、自分たちに都合のいいポジションを作っています。
そして、それは、それぞれの人が、それなりの幸福を見出しているのであれば、批判することではないし、むしろ、それ以外の社会というものは存在しないと思います。
ただ、第三次ベビーブームが来なかったことが示すように、日本では古典的マジョリティ優位の価値観の維持は限界を迎えていて、その価値観に基づいた社会では幸福に生きられない人口が増えていると思います。
そのため「多様性に配慮している」ことがマジョリティに求められるのです。
そこで、他人を評価することに慣れ、社会から評価されることに重きを置いてきた日本人は、全てのひとから評価されることを目指すのですが、それは、なかなか難しいと僕は思います。
結果として、自分が生きづらい社会から距離を置き、孤独を選ぶ人が出てきているのではないかと仮説を立て、最近観察を進めています。
行政は全ての人に配慮することが求められますが、それと同じ価値観を、個人が持つ必要はないのです。
更にいうならば、社会の構成メンバーとして適切であるかどうか、お互いに見張り合う習慣は、多様な価値観を持った時代には、余り合わないと思うのです。
もし、やるのであるならば、ほどほどに価値観の近いメンバーが構成する、小さい社会でやるべきです。
さもないと、誰も幸せになりません。
肥満の人を「自分を律しない」と批判したくなる人は、自分が、古典的マジョリティによって、彼らの生きやすい社会の継続のために教育を受けていないか見直した方が良いと思います。
そして、そのような価値観を持っている場合(価値観を変えることは難しいので)自分の所属する社会を慎重に選ぶことを勧めます。
大和民族の男性であっても、「壮健」を失ったり、あるいは「学歴」や「将来に不安のない年収」を獲得しそびれた時、古典的日本社会が、自分たちのために作られていないということに直面するわけですが、そのとき「日本社会」ではなく「自分の居心地のいいコミュニティ」に所属意識をシフトすることが、自己肯定感を高め、Well-being をサポートするんですけど、古典的マジョリティを理想とする社会に慣れてしまうと、なかなか難しいのです。
特に第二次ベビーブーマー(今の中高年)は、競争が激しかったせいで、「勝ち」とか「負け」とかいった理解しやすく強固でシンプルな価値観にとらわれる人が多めな印象です。
この世代は、第二次世界大戦後かつ高度成長期を経た親が、アメリカの経済至上主義を「ヨシ!」として、幼少期から価値観を刷り込んできたから、なかなかそこから脱却できないのかもしれません。
個人的には、日本人の幸福感と資本主義は、相性良くないと思うんですけどね。
ちなみに、美容やファッション、エンターテイメントは「流行」や「イメージ」が価値を無限に育てられる分野なので、資本主義社会では人気ですが、不老長寿が不可能な医療とは、少し分けて考えた方が良いと思います。
経済を回すという意味では、努力して能力を獲得し、何らかの価値のあるものを生み出し、販売し、収益を手に入れる、という活動は健全だと思いますが、自分の人生に与えられた有限な時間を何に使いたいか、よく考えた方が良いんじゃないですかね。
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