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不登校の問題の大部分を占めるもの。
ご覧いただきありがとうございます!
吹田市で、不登校支援と発達支援をしている居場所を運営しているNPO法人トイロです。
「不登校の問題が生じるのは、学校に依存しすぎているから。」
について今回は書いていきたいと思います。
最後までお付き合いください。
そもそも、子ども達には依存先がどれだけあるの?
子どもたちの依存先になる居場所にはどのようなものがあるでしょう?
・家
・学校
・習い事
主にこの3つではないでしょうか?
依存先としては少なすぎます。
これ以外に、「地域の子どもの居場所」や「サークル活動」などが入るのは少ないように感じます。
学校に行ってる、行ってないに関わらず、これが問題の前提となっています。
依存先が少ないことの問題は?
なぜ依存症になるのでしょうか?
それは、依存できるものが少ないからです。
では、子どもたちの依存先が少ないとどうなるか?
目の前にあるものの依存度が増します。
それは「学校依存度」です。
親や教師などの大人も同じです。
ここでは、依存度が高いことに問題があるのではなくて、依存するものが少ないことに問題があると考えます。
これは、不登校期間の「ゲーム」や「動画」にも置き換えられます。
心からやりたくてやっているというよりは、「暇をつぶす、考え事をせずに済むための選択肢が少ないから」の方が多いでしょう。
実際、趣味がある不登校の子ども達はあまりゲームや動画に熱中しません。
というように、依存するものが少ないと、依存度合いが増してしまいます。
自立するということは、依存するということ。
依存するものが多くあればあるほど、依存傾向は少なくなるので、自立できます。
矛盾しているようですが、それが自立です。
私が教師をしていた時に、このような自立を学校として教えているのを見たことがありません。
どちらかと言えば、
・自分のことは自分でできるようにならなければいけない。
・みんなで協力と言いつつも、競わせる。
・自分の敵は自分だ。
といった要素が強かったと思います。
だから、依存するものを持とうとしない。
依存することは恥だとなっていくのかなと思っていました。
これも問題です。
ある意味、この感覚が生きづらさを生み出してしまうことがあります。
頼れない、弱音を吐けない、助けを求められない社会になってしまうからです。
このような教育を受けてきた学校依存の大人は、「学校が全て」になってしまいます。
言い換えたら、「学校にいけなくなったら終わり」と考える大人になります。
だから、親も教師も、学校に行かせようと焦って不安になり、子どもとの関係がこじれて、事態が深刻化します。
色んな意味で、大人が学校に依存し過ぎです。
学校に行かなくなる本当の問題は?
「教育機会の確保が失われる」とよく言いますが、そこよりも、「子どもの依存先が家だけになってしまうこと」だと思います。
学校に行く行かないに関わらず、前提として「子ども達の依存先」が複数あれば不登校問題はこれほど深刻化しません。
学校に行けなくなっても、依存先があれば焦ることはないです。
「学校依存」が強いから、学校に行かないと、幸せな人生が送れないという錯覚に陥るのです。
そして、学校に行けなくなることで、家だけが依存先になり、家依存症になって、さらに前進が難しくなります。
これが問題です。
結果、家庭だけで問題を抱えてしまって、どうしていいか分からない状態になってしまいます。
だから、問題の根本は、「学校に依存しすぎ」ということになります。
では、「学校に依存しすぎ」という現状の中、何が必要なのかというのを、親目線、教師目線、不登校支援目線で順次述べていきたいと思います。
最後までご覧いただきありがとうございました!
トイロの活動などはこちらからご覧ください!
そして、年明けに、吹田市の不登校の保護者に向けての講演会をすることになりました!
「不登校を経験した中で得た親としての対応について」というテーマでお話いたします!
また、「ソーシャルワークを意識した不登校支援」というテーマで、教師向けの研修会もします!
このような機会をいただけることがありがたいなと思います!
また詳細は追ってお知らせいたします!