〈耳をすます〉とは何か?〜音楽・サウンドスケープ・社会福祉
7日(日曜日)まで東京都現代美術館で開催中の『翻訳できないわたしの言葉』に出展している新井英夫さんブースのテーマは『カラダの声に耳を澄ます』です。さらに20日から東京都美術館で始まるミロコマチコさんを含む5人の作家の展覧会タイトルは『大地に耳をすます』。カプカプ・ファミリー、耳をすます。
私は2011年の東日本大震災を機に弘前大の今田匡彦研究室にて、音楽ワークショップや市民講座を企画する社会人としてサウンドスケープ哲学の実践研究を始めました。同世代の今田先生の研究は以前から共感していましたし、サウンドスケープ論の提唱者R.M.シェーファーとの共著『音さがしの本〜リトル・サウンド・エデュケーション』を、震災後の日本の子どもたちに向けた〈哲学書〉として捉え直したかった。私自身も実際にこのテキストから、子どもたちに向けたワークショップを実施していました。
そして、この本の最初の課題が「耳をすましてみよう」なのです。100の課題はオープンソースで、最後は新しい課題の発明が読者の手に委ねられます。今は時代的に古く感じる内容も正直ありますが、哲学として受け止めると新しい発見がある。2008年から重版を重ね、昨冬の東京藝大『芸術未来研究場』展でも参考文献として紹介されていました。(確かここにも〈耳をすます〉があった)。
実はこの課題の中には1割近く〈目を閉じるワーク〉が提示されています。最初は聴覚を研ぎ澄ます目的だと思っていたのですが、2021年にシェーファーが亡くなり重度の視覚障害があったことが公表されると、私自身この本の受け止め方そのものが大きく変わりました。今から半世紀前、たった1行だけ「音楽、サウンドスケープ、社会福祉」を提示したシェーファーの本当の意図が明かされたような気持ちがしたのです。
昨今はオーディズム的なシェーファーの言説が誤解され、若い世代から〈差別的〉と批判されることもあります。しかし彼が声高に聴覚トレーニングを推奨した本当の目的は、障害のある視覚を補うため、もっと言えば全身の知覚を調和させるためだったのかもしれません。「耳をすます」というのはひとつの比喩で、目の前の世界と真摯に丁寧に対峙する姿勢のことだと思っています。それはもちろん、ろう者の世界にもあり得る関係性です。だからこそ映画『LISTENリッスン』は音のない世界から生まれたのでした。
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