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薔薇と豆苗とドクダミ 

 長時間のピアノ練習があったので、子どもの頃からずっと《芸術と生活》をどう繋げるか?という課題と向き合ってきた。60年近く生きてきたひとつの答えとして、結局は「薔薇と豆苗」や「薔薇とドクダミ」みたいだなと、早朝に庭仕事をしながらひとり腑に落ちている。

左が庭の薔薇と豆苗、右が薔薇アーチの下に生えるドクダミ

 薔薇を《アート》、食用の豆苗や薬用のドクダミを《ケア》と捉えると、自分の場合は圧倒的に《アートの中にケアがある》タイプだと気づく。育児や介護といった人生の《ケア》も自分の芸術活動として位置付けてきたようなところがある。これはきっと特殊なタイプで、現実的には《ケアの中にアートを取り入れる》方が社会的な必然性や有用性、何よりも汎用度の高い考え方が生まれるだろう。でもどうしても、文字通り傷だらけになりながらも、この棘だらけの薔薇のようなアートがあってこその人生だと思ってしまう。これは性分もあるだろう。
 別にアートとケアの優劣の話ではない。自分は薔薇もドクダミの小さな白い花もどちらも同じように美しいと感じるからだ。だから自分のタイプを知ることで生き方がちょっと楽になる場合もあるな、という個人的な気づきに過ぎない。もちろん《ケアから生まれるアート》だって当然あるとは思う。ただひとつだけ確かなのは、アートだけ、ケアだけは自分には非常に息苦しい生き方だということ。
 もしかしたら鶴見俊輔の『限界芸術』にも近いとは思うが、彼が子どもの世話をしたり、親の介護をしたとは聞いたことがないし、何より芸術家ですか?と意地悪く説いてみたい気持ちにもなる(男性にだけ許されている”思想家”という肩書には懐疑的なので)。

 ちなみに《アート×ケア》が対等になる、調和している関係性とはどのような状態だろうか。今流行りのwell-beingにも繋がっていきそうだと予感する。実は見逃されがちな《セルフケア》も含めて考えてみたいし、だからこそ《アートがあるからケアが生まれる》というコペルニクス的転回はもっと探求したいと思う。

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