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世界の中心で、耳をすます。

※この記事は再考の上、2024年10月31日に大幅に加筆しています。

 20年ほど前に「世界の中心で、愛をさけぶ」というタイトルの小説が大流行しました。略して〈セカチュー〉と呼ばれて社会現象にもなったこの青春恋愛物語は、ドラマや映画や漫画だけでなく、舞台化もされたようです。ちょうど子育てが忙しい時期で、もともと恋愛小説も読まないので実は詳しい内容は知らないのですが、タイトルは今も秀逸だと思っています。
 そもそも〈世界の中心〉とは何か。それはどこにあるのか。誰にも〈世界の中心はここ〉と決められないはずですし、実際には見たこともないはずですが、実は誰もが〈ある〉と信じている。それぞれに〈ここが中心〉だと考える場所があるとも言える。
 もしくは自分が〈叫ぶ〉場所が〈世界の中心〉となる。それは自分の〈声〉によって、自分を〈中心点〉とした世界が波紋のように広がっていくイメージでしょうか。誰かに届いた声が、世界への扉をあけるようなイメージかもしれません。〈声〉とは〈存在〉のメタでもありますから、実際に〈発声〉するだけでなく〈手話〉や〈文字〉によって、つまり〈ことば〉や〈身体〉によって〈叫ぶ〉こともあるでしょう。音楽や絵画などの〈非言語の叫び〉もあるはずです。いずれにせよ、〈叫ぶ〉という内発的な行為は自分が〈ここにいる!〉ことの証であり、結果として生まれた〈声〉が周囲の環境と響き合いながら〈世界〉をかたちづくるのです。

 反対に〈世界の中心で、耳をすます〉をイメージしてみましょう。
 例えば、都会の広い公園に散歩に出かけてみます。安全な場所で立ち止まってみる(可能ならば目を閉じる)。すると、歩いていた時には気づかなかった多種多様な音が四方八方からきこえてくるはずです。聴覚的に〈聴く/聞く〉という行為は、目に見えないものの存在に気づくことでもある。周辺のビルに反射する子どもたちの声がしたら、近くに小学校や保育園があるのかもしれません。公園のどこかで遠足をしているのかもしれない。うっすらと空気中に通奏するノイズは高速道路を行き来する車の音かもしれません。そのまましゃがんで足元に耳の意識を向けると、通風口から地下鉄の通る音がきこえたり、マンホールから水の流れる音がする。舗道の植え込みからは昼間でもコオロギたちの鳴き声が聞こえます。そこから静かに目をあけると頭の遥か上を飛行機が横切っていく。音はきこえず飛行機雲だけが残っています。一部の樹々の葉が揺れていて、そこが〈ビル風の通り道〉だと気づきます。〈目できく〉世界から、〈ろう者〉と呼ばれる音のない世界で生きる人たちの文化へと思いを馳せます。
 そのまま歩きはじめると〈世界の中心=わたし〉も動きます。さっきまで足元で鳴いていたコオロギは消え、代わりにカラスの鳴き声が気になり始めます。耳がどんどんひらかれると、自分を取り巻く世界が広がっていくような感覚が生まれます。街の音風景は自分が動くと変化する。〈いまこの瞬間〉の音風景はすべてが一期一会です。世界が奏でている〈偶然のオンガク〉に気づくことは、自分が〈今ここ〉に生きている証です。公園が頭上に広がる宇宙とも響き合っていることを実感するのです。
 その公園を抜けて隣接した駅につくと、自動改札とエスカレーターのリズムが〈音楽〉のように響き合っていることにも気づきます。構内に響くホーム・アナウンスの声、〈電車がきます〉と点滅するランプ、すれ違うカップルの幸福そうな雰囲気、白杖で歩く人のリズム、車椅子やベビーカーの描く動線、そしてホームに滑り込んでくる電車の風圧、すべてが響き合って世界が生まれています。その中心に〈わたし〉がいる。駅のサウンドスケープには退屈することがありません。耳の穴をイヤフォン(音楽)で閉じてしまうのは実は非常にもったいない。

 サウンドスケープ領域では、音風景/音環境を〈音地図/サウンドマップ〉に記録することがあります。それが紙媒体の場合は写真と同様に、〈きく人〉が捉えた〈一期一会の音風景=瞬間〉の記録となります。その人がその瞬間に生きた証とも言える。例えば往来する車のように持続的にきこえる音でも、記録された瞬間が誰かの〈耳の記憶〉になる。
 サウンドスケープの聴取が〈科学〉ではなく〈芸術〉に寄り添っているのは、それが〈音響〉のデータ分析ではないからです。もちろん音響工学の分野ではそれも可能ですが、私がこのnoteで語るのはサウンドスケープの思想であり哲学、言葉による芸術です。〈耳の記憶〉という数字では計り知れない人間特有の世界に興味があります。本来、人の知覚は多種多様ですが〈五感〉という言葉で大まかに分類されています。しかし正確な数字には置き替えられない曖昧で複雑なものだと思います。例えば、先述した音のない世界に暮らす〈ろう者〉の世界は聴者が耳を塞いだとしても体験できない。そこには彼ら特有の〈ろう文化〉が存在するからです。たとえ聴者同士であっても自分なりの知覚の使い方をしている。誰もが世界の中心なのです。ですから〈きく〉ことは聴覚に限らず、受動的/能動的、世界との〈関わり方〉を表します。Hear/Listenもしかりです。

 ここで、ひとつ〈問い〉が生まれます。〈耳をすます〉と〈耳をひらく〉の違いとは何でしょうか。これを読まれた方は、どのようなイメージの違いをもつでしょうか?
 サウンドスケープを提唱したR.M.シェーファーは《Sonic Universe!/邦訳:鳴り響く森羅万象に耳を開け!『世界の調律』より)》という言葉を残しました。日本版では〈耳を開く〉と訳されましたが、オーディズムが認知されている現代ならば〈全身をひらく〉となるでしょうか。自らの内/外で〈世界は響き合っている!〉ことを実感したシェーファーの驚き、生きる喜びが感じられる象徴的な言葉です。
 折に触れてお伝えしていますが、生まれながらに重度の視覚障害があったシェーファーは本来は画家志望でした。8歳で片方の目を摘出した後も画家を目指して、10代半ばまでは美術学校に通います。しかし残された視力を心配する周囲の大人たちの説得もあって音楽学校へと転校する。そこでのシェーファーは伝統的なクラシックの(五線譜上の)音楽教育に馴染めず、欧州へと旅立ちます。おそらくそこで美術や音楽の境界を越えたバウハウスの芸術教育や現代音楽のアプローチに出会ったのでしょう。
 シェーファーは自らの視力を補うように〈耳でみる私〉を世界の中心に置きました。そして〈鳴り響く森羅万象〉に気づいたのです。シェーファーにとっての〈耳を開く〉とは、聴覚と視覚を響き合わせた状態だったと思います。その個人的な知覚が捉えた世界を〈サウンド(聴覚)スケープ(視覚)〉と名付けたのです。そして得意な絵を描くように、目できくように世界を記録した図形楽譜で、カナダを代表する作曲家としての人生の扉を開きました。鳴り響く世界の中心で〈Sonic Universe!〉と叫んだのです。
 
 私は〈世界の中心〉にいる。〈自己中心〉という言葉は、特に日本では〈ジコチュー〉と略され肯定的な印象がありませんが、はたして〈世界の中心に自分を置く〉ことは悪いことでしょうか。むしろ、世界の中心に自分を置かなければ、そこから耳をひらく/すますことをしなければ、世界と関わることは出来ません。シェーファーのように〈鳴り響く森羅万象〉にも気づけない。大切なのは世界の中心に置いた〈自己〉の在りよう、世界との〈関わり方〉だと思うのです。

 サウンドスケープ的な世界観とは、大きな水たまりに雨粒が落ち、あちこちに水紋が広がったり重なり合ったりするイメージです。丸く広がる水紋が生み出す小さな世界の中心をつくる雨粒が〈私〉なのです。自己と他者の世界、それぞれの〈私〉が中心にいる世界がお互いに響き合うことで変化する。その水たまり全体の〈場の関係性〉が〈サウンドスケープ〉です。
 〈鳴り響く森羅万象〉は、自分がどの世界に立つかによって当然〈きこえ方〉が違ってきます。音風景/音環境は〈きく人〉によって差異が生まれる。先ほどの〈音地図〉は全体の〈場の関係性〉を俯瞰した(今流行のメタ認知でしょうか)記録です。自分の天と地をつないだ世界のイメージでしょうか。歩いたりしゃがんだり、目を閉じたり、時には自らを垂直に空中に置くイメージで捉えた世界の記録です。
 
 〈世界の多様性〉を知ることは難しくありません。数人で同じ場所を同じ時間だけ散歩しながら音風景を記録すると、それぞれが知覚した世界が想像以上に異なることが解ります。つまり〈世界〉は人の数だけ存在する。考えてみれば個体差があり、誰ひとり同じ知覚の使い方をしないのですから、当然と言えば当然の結果です。ちなみに〈サウンドスケープ〉を〈音風景〉と訳すと主観的な印象が、〈音環境〉と訳すと客観的な印象が生まれます。

 とにかく、まず大切なのは自分を〈世界の中心〉に置くことです。それは自分は〈孤独〉では無いと気づくことに似ています。私を中心とした世界は、必ず誰かの世界と響き合っている。それを確かめるために〈世界の中心で、耳をすます〉のです。自分を取り巻く〈環境〉の在りようを知る行為でもあります。それから〈私はここにいる!〉と叫ぶ。もちろん〈愛〉を叫んでも構いません。手話やダンスや音楽や絵画で叫んでも構わない。
 その〈声〉は波紋のように広がります。きっと誰かの世界と静かに響き合うでしょう。各々の世界のズレは豊かな倍音を生み、衝突はやがて〈調和〉へと昇華されるのです。それは〈ガムラン〉の音が生み出すコスモロジーと似ています。その〈鳴り響く森羅万象〉に自分をひらいていくと、いつの間にか音のない世界〈沈黙〉がきこえてくるよと、シェーファーは説くのでした。
そして〈沈黙〉とは何か。これはまた次の機会にお話しします。

世界の中心で、耳をすます。写真:Yuko Sasama〈Life as Music〉より


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