天地万象のチャクラ
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生物界の車輪様デザイン
前回投稿の終わりで私は、「80 億の人類・文化が繫栄するこの地球こそが『チャクラの惑星』に思えてくる、それぐらいチャクラ・デザインは人の世に満ち溢れている」と書いた。
では何故、円輪放射の車輪様デザインは、ここまで普遍的に人々を魅了し、その心の奥深くから繰り返し紡ぎ出されてくるのだろうか。
思うに、それはおそらく、私達がその生を営む天地大自然の中に、チャクラ・デザインがあまねく存在しているからではないだろうか。
それは第一に、何よりも美しく咲き乱れ人の心を潤す花として、人類の感受性の進化と共にその姿を顕在化させていったのだろう。中心から放射状に展開するその求心的なデザインは、単なる色彩的美しさを超えて、私達の心を惹きつけてきた。
以前の投稿で私は、「インドにおいて蓮の華がスポーク式車輪と重ねあわされて『蓮華輪』のデザインが生まれた」と書いた。けれど改めて思い巡らせていけば実に多くの花がチャクラ・デザインをしており、例えば上のヒマワリはじめコスモスや菊やマーガレットなど、蓮華などよりもよっぽど整った円輪形をもった花は、数えきれない。
ちなみに、このコスモスという花の名前、語源的には宇宙を表すコスモスと同じで『秩序・美しさ・調和』などを意味するのだという。これはインド語のDharmaの意味とも重なって、とても面白い符合だ。
更に視野を広げていけば、チャクラのデザインは花だけに限られたものでもなかった。柑橘類を筆頭に多くの果実が中心から円輪放射状に成長展開し、『輪切り』にされた時には美しいチャクラ・デザインの秩序を現す。スイカやカボチャなどはその外見さえもチャクラ・デザインそのものだった。
やはり以前の投稿で、蓮という植物がその花だけではなく柄茎の上に展開する葉、そしてその柄茎や蓮根を輪切りにした姿まで美しいチャクラ・デザインだと指摘したが、それは蓮だけではなくあらゆる植物において、多かれ少なかれ共通する摂理だったのだ。
さらに視野を広げると、個々のパーツだけでなくひとつの植物全体が、草から大木に至るまで、基本的に根を中心にそこから円輪放射状に成長し展開していく。
特にサボテンなど多肉植物に顕著に表れている秩序だったデザイン性は、インドで華々しく展開した吉祥チャクラ文様に似て、ある種小宇宙を思わせる様に美しい。
その他、日常よく使う木や竹も、その幹を輪切りにすれば自然と円輪デザインの切り口が姿を表すし、瓢箪などを切って食器として使えば、その形も丸くなる(人間が後から作り出した土器・陶磁器なども、圧倒的に丸型をしており、その背後には轆轤という車輪の存在がある)。
植物だけではなく様々な種類のキノコの傘、クラゲやイソギンチャク、ヒトデやウニ、サンゴなど多くの海洋生物、そして原初的な単細胞生物も、中心から円輪放射状に展開するチャクラ・デザインを持つものは、数え上げたらきりがない。
上のサンゴで多いのは六放と八放で、ウニなどでは五放が多い印象だが、海の中はチャクラ・デザインで満ち溢れている。
上のクモノスケイソウなどは、神が職人的な精巧さで設計した様に美しい幾何学的秩序を持っているが、職人的な技巧といって思い出されるのは、やはりクモの巣だろう。
何も考えずに本能のみに従って動いているクモが、なぜここまで完璧で美しい秩序を生み出せるのだろうか。しかもこれは重力に逆らって縦に(まるで車輪の様に!)作られているのだから何とも不思議だ。
そして実は、私たちの身体の上にも美しいチャクラ・デザインは顕現している。その最たるものは『眼』だ。
そこではいわゆる黒目あるいは瞳の部分が美しい円輪形をしており、中心にあるドット状の瞳孔から放射状に展開する虹彩、それら全体が美しいチャクラ・デザインを成している。
視覚優位の動物であるヒトは、何よりも目と目を合わすアイコンタクトをそのコミュニケーションの基本としており、有史以前あるいはサルの時代から、お互いにこの円輪なす瞳を見つめ合いながら心を結び相互の関係性を築いてきた。この瞳のビジュアルが人の魂に与えたインパクトは、大なるものがあったと考えていいのではないだろうか。
そう言えば、確かクリシュナに対する賛辞の中に「青い蓮華の様な麗しい瞳」という表現があったかと思うが、上の画像を見てその瞳孔を花托に重ねその周囲の細かいフリンジを雄しべとすれば、あの蓮華輪のデザインにも重なってくる。
そう思って改めて宗教的なチャクラ・デザインを見返してみれば、それは神の眼にも思えて来るだろう。
インド教の伝統では、太陽神スーリヤはしばしば『一切を見る天空の眼』と讃えられて来た。それは太陽が持つ円輪ドット状の形が瞳孔に、そこから360度に放たれる光芒が虹彩に擬せられたのかも知れない。
特に太陽の周りに暈あるいは光冠と呼ばれる光の輪が出た時には、古代インド人ならずとも、もうすべてを見晴るかす神の巨大な瞳が天空に顕現したかのように見えて、実に壮観だ。
ちなみに車軸を意味するインド語の『アクシャ』は、同時に『眼』を意味する。古代インド人が太陽の事をスリヤ・チャクラと呼んだのは、太陽と車輪、そして瞳との、三つ巴の重ね合わせがあったのだと、考えられないだろうか。だからこそ彼らは、太陽を『一切を見る天空の眼』と呼んだのだと。
この丸い瞳の形は、人間だけではなく哺乳類、鳥類、爬虫類、魚類、イカ等の軟体動物など、多くの種において共通しており、必ずしも人間の眼ほど車輪のモチーフと重なるものばかりではないが、何よりもその円輪性において高い普遍性を示している。
面白い事に、生物の世界にはこの様な眼の形を擬態した目玉紋様がある。これは天敵などを脅かしたり惑わせたりするために進化したと言うが、特に魚や昆虫類で発達している。
これら瞳や目玉が表す円輪形は、文字通りアイ・キャッチーなアイコンとして、太古の昔から私たち人類の魂の淵源に、印象深く刻まれ続けて来たのだろう。
ここまで、私たちに身近な生物の世界に顕現する様々なチャクラ・デザインを見て来た。車輪によって表象される、中心を起点に放射状360度に展開し全体として円輪形をなす、という構造デザインは、生命圏としての地球が持っているひとつの普遍的な摂理と言ってもいい。この点に関しては、きっと多くの人に同意してもらえるはずだ。
以前に私は、第二章の『インダスの印章と「チャクラ文字」』で瞑想の深みで直観される幾何学模様、特に六放チャクラ型のヴィジョンについて触れ、また前回投稿ではアメリカ先住民の『ヴィジョン・クエスト』やオーストラリア先住民アボリジニーの『ドリームタイム』のチャクラ・シンボルを紹介してきた。
私たちが生を営むこの世界に遍満するこうした幾何学的なチャクラ・デザインが、長い歴史を通じて私たちの集合的無意識に積層していて、それが瞑想や儀式における深いトランス時にチャクラのヴィジョンを浮かび上がらせた、という事も十分に考えられるだろう。
円輪展開する物理世界
生物の世界から離れれば、ある種の鉱物や雪の結晶もまた見事なチャクラ・デザインをしている。
日常的な視認性は低いが、特に六角形とそれに内在する対角六放線をベースにした雪の結晶は、インドにおいて発達した六芒星や六放チャクラ・デザインそのものと言ってもいい構造を持っている。
雪の結晶が何故六角形になるのかは、こちらのサイトが分かり易い。何でも水分子のH2Oはひとつの酸素分子対して2つの水素分子が角度106.6度をなして結合しており、それら分子が無数に集まって結合すると自ずから六角形になるのだと言う。
人体の70%を構成するのは水で、その全ての分子がこの角度106.6度に開いた水素の腕を持っている。つまり潜在的に六角形の形に繋がりたがっている、あるいはかつて繋がっていた。水に記憶や意識があるとも思えないが、そんな『潜在能』のようなものが、ひょっとしたら無意識の深淵からチャクラのヴィジョンを生み出したりもするのだろうか。
この水とチャクラ・デザインの相関に関しては、もうひとつ面白い事実がある。下の動画はサイマティクスと呼ばれるもので、丸い金属容器に水を満たした状態でそこに様々な周波数の音波を当てる事によって、その周波数の変化に応じて水面に様々な幾何学紋様が生じ展開する現象だ。
そこに描き出される多種多様な円輪デザインの妙には思わず圧倒されて魅入ってしまったが、印象的だったのは主に6~12本の明確なスポーク構造を持ったチャクラ波紋が頻繁に、まるで生きて意思を持っているかのように立ち現れる事だった(長い動画だが、是非10分くらいは見て欲しい)。
この音波周波数と水との物理的な相関、そして水面上に現れるその表象について考えた時、私はミルク・クラウンと呼ばれるこれも不思議な現象を思い出していた。
それは器に入れたミルクの表面に同じミルクの一滴を落とした時に展開される印象的な液体の振舞いなのだが、上の画像の様にあたかも王冠の様な形でミルクの水面が美しいリング状に立ち上がってくる。
誰でも子供の頃に遊んだと思うが、例えば池の水面に石を投げこんでみた時の事を思い出せば、石が水面に落ちた瞬間にきれいな円輪形の波紋が、幾重にも重なって広がって行っただろう。
ある一点からエネルギーが放たれその波動が周囲に展開し広がっていく場合、その力は中心から360度全ての方向に均等に伝わり、波の連なりは自ずから円輪の形をとる。ある意味当たり前の様な、あるいは不思議極まりない様な、面白い現象だ。
この360度のエネルギー伝達における『円輪性』というものは、例えばあの『七色の虹』においても効いているのかも知れない。一般に知られる虹は半円形が普通だが、もしそこに大地という障害物がなければ、それは真円の真ん丸な形をとるのだ。
ここまで考えた時、ふと私は、リグ・ヴェーダのある一節を思い出していた。
ここでヴィシュヴァカルマンと呼ばれている『独一の神』とは、後の『原初の一者ブラフマン』に他ならない。それは一点から発したエネルギー波動が360度等進展開していくという真理を、直観的に見事に、把握してはいないだろうか。もっとも、平面状ではそれは360度の円輪になるが、宇宙空間でそれが起きれば立体的なあらゆる方角つまり球体になるはずだが…
続けて私が考えたのは、空気はどうなのだろう?という疑問だった。水であればその振動波は容易く可視化されるが、空気はなかなかに難しい。でももし可視化できるとしたら、このサイマティクスの水面の様なチャクラ波紋が鮮やかに浮かんでいるのではないだろうか。
例えば私がインドでお世話になって本稿でも何度か登場した日本山妙法寺は日蓮宗で、お太鼓を叩きながら唱題行をする。大太鼓であれ団扇太鼓であれ基本は円輪で大体が真ん中あたりを叩くので、その中心から音波が飛び出し展開し周囲に広がって行くはずだ。もしそれを可視化出来たら、いったいどんな形が現れるのだろう。
試しに微細な粉体を密に漂わせた部屋で太鼓をドーンと叩いて、その瞬間をハイスピード・カメラで撮影したら、漫画であるようなチャクラの円輪波動がグワーッと広がりながら進んで行ったりするのだろうか。
さらにその波動は人の体内にも当然波及し、その70%を占める水をも共振させていく。それをもし可視化できたとしたら、一体どんな形が現れるのだろうか。考えただけで楽しくなってしまう。
サイマティクスについてはドイツ人でその研究を極めた様なAlexander Lauterwasserという人がいる。日本語の解説は余り見かけないのでいまいち分からないが、音の中でも正弦波というものを用いて水面のサイマティクス映像を撮影している様だ。
上の動画を見ると非常に精緻な美しいチャクラ紋様が浮かび上がり、しかもそれが車輪の様にあるいは小宇宙のように回転までしている。何でも世界の中心原理は『音』で、宇宙的秩序の根底には『音と水』があるとかないとか。
私などはつい宇宙原初の『オーム音』の事を思い出して、心が少しざわめいてしまった。古代からヴェーダを奉じるインド人は、常に賛歌つまり音声と共にその宗教性を育んできた。もし音というものが何か神秘的な力を持っているとしたら、その働きに気づき易かった事はあるかも知れない。
サイマティクスというこの物理現象は別名クラドニ・パターンとしても知られていて、鉄板の上に砂などを蒔き、そこに様々な周波数の振動を伝えて同じような幾何学紋様を浮かび上がらせる。
ベースとなるプレートは四角であるにもかかわらず、そこにはしばしば瞬間的に美しい円輪のチャクラ・デザインが顕現し、これもまたエネルギー伝達の360度展開性に関わるのだろうか。それが何故この様な精巧なデザインを持つのかは、学者ならぬ私には神秘としか言いようがないのだが。
このクラドニ・パターンについてはTEDでも面白いスピーチが紹介されているので、興味があれば見てみて欲しい。
もちろんインダスの昔にまで遡る古代インドの人々が、雪の微細構造を実際に目の当りに視認してはいないかも知れないし、サイマティクスについても知らなかった可能性は高い。けれど、そこには『直観された普遍的なダルマ』とでも言うべき何かがあった、そう感じるのは、私だけだろうか。
六角形の摂理
話を雪の結晶に戻すと、この六角ベースの形は雪以外、水晶をはじめとした鉱物の結晶や溶岩が固まってできる柱状節理、トンボなど昆虫の複眼やハチの巣そして亀の甲羅などでも普遍的に見られ、何か大自然に内在する強固な摂理であるかの様にも見える。
そしてそれは、人間を含め生物の細胞も実は例外ではない。ある種の植物細胞、さらに網膜色素上皮細胞や肝臓細胞など私たちの体細胞もまた、美しい六角形の形を持つ事が知られている。
肝細胞が六角形をしている、というのはびっくりしたが、上のモデルを見ると外側に輪縁を嵌めたら車輪となって転がって行きそうだし、あのインダスのチャクラ文字ともピッタリと重なり合う(もちろんそれは単純な形の連想に過ぎず、何ら相関はないのだろうが…)。
この六角六放という幾何学的な形、何やら平面充填という原理が関係しているらしい。
これまで私は、古代西ユーラシアにおいて特に高速機動戦車の場合6本スポークが支配的な時代があり、インド亜大陸に侵入したアーリア人のラタ戦車も6本スポークが主役であった可能性が高い、と推測してきたが、上の説明で、今までなんとなく感じていたその原理をかなり明確に理解する事が出来た。
六角形はもっとも真円に親和性が高く同時に衝撃吸収性に優れている。そこで真円に等しい車輪の内部を6本のスポークで支える事で六角形を仮想構築し、最も耐衝撃性に優れた強靭かつ軽い車輪を開発したのだ(あるいは最も強度の高い三角形を六個内在させた、と観るべきだろうか)。
スポークをもっと増やせば原理的に強靭さは増すのだろうが、その分車輪は重くなりサスペンションが失われる。スポーク式である事のメリットは損なわれ、しかも必要資材や製造工程も増やしてしまう。逆に3本や4本では技術的にバランスがとれず脆弱過ぎた。つまり6本スポークとは、さまざまな意味で合理性を追求した結果到達した、あの時代のひとつの最適解だったのだろう。
単なる勘違いかも知れないが、物理学あるいは幾何学的な原理を前提に考えると、肝細胞の六角六放デザインと6本スポークの車輪は、何やら根底において繋がっている様な気もしてくる(笑)
回転する大宇宙
ここまで、自然界に遍く広がる、車輪の形に相似的な様々な形態や現象について見て来たが、チャクラの普遍性は、そのデザインだけにはとどまらない。
古代インドの世界観において、この地球が須弥山を中心とした円輪の『チャクラ・ボディ』として理解されていた事は繰り返し述べてきた。そして、地上の意識を離れて更なる高みから地球を俯瞰した時、それはあたかも車輪の様に回転している事実があった。
もちろん地球だけではなく、全ての惑星が自転しつつ恒星である太陽を中軸とした同心円上(中にはズレたやつもいる)を公転しており、更にその恒星系もまた回転しつつ集まって星団を生み出し、それがさらに集まって回転しつつ銀河系を形作っていく。
その様な回転する大小のコスミック・チャクラが、数え切れないほど集まって入れ子構造を作り、あたかも壮大な蓮華輪マンダラの様に大宇宙を構成している。
それは大宇宙だけではない。ミクロ・コスモスである原子の実相もまた、核という確かな中心の周りを無限に回り続ける素粒子の運動に他ならないだろう。
そして大宇宙とその中に無限に存在するすべての物質、その原初の始まりと言われる『ビッグ・バン』に思いをはせれば、それはまさしく、究極の一点を中心に起こった爆発があらゆる方向に向かって一気に展開したところから全ては生まれ、回転し始めたのだった。
車輪によって表象される中心軸を持った円輪展開と回転。それはミクロからマクロにいたる、この宇宙世界に普遍的な摂理であり秩序だった。
あたかもコスミック・エナジーによって活性化されたチャクラが体内で開くように、人知を超えた大宇宙の神秘によって、あらゆる次元のコスミック・チャクラは展開し、転回し続けている。
それはまさにサーンキャ思想が、輪廻するこの現象世界の根本原因をプラクリティからの展開・転変に見立てていた事と符合していた。
ちなみに宇宙世界を意味する英語の『ユニバース』は、『単一の』を意味するuniとラテン語の『回転・変化』を原義とするverseの複合語らしい。このラテン語はヨーロッパ諸語の共通起源であり、ヴェーダの古サンスクリット語とも極めて近しい関係にある。
個人的にはこのあたりにも、ラタ戦車を駆ってヨーロッパを席巻したアーリア人によるチャクラ思想の名残が感じられるのだが、どうだろう。どちらにしても、ユニバースという言葉の原像が転じ変じる大宇宙だというのはとても面白い。
文明の運動と車輪
そんな、転変するコスミック・チャクラの一隅に、遥か40億年の昔、奇跡の様に『いのち』が誕生した。太陽という中心軸の周りを公転し、自らも自転軸を持って回転する地球の上に生まれた生命は、常にその巡りゆく時間と季節のリズムと共に進化の歴史を歩んできた。
コスミック・チャクラの申し子であるはずの生命は、しかし目に見える外部運動器官としては、ついに車輪の回転メカニズムを獲得できなかった。それが人類によって初めて実現される事によって、生命の歴史は、まったく新しい次元へと突入した。
車輪という体外の運動器官を獲得した人類は、やがて革新的なスポークを開発し、ついにホモ・サピエンスとして生物進化のステージを登りつめる。そして、かの古代インド思想が直感した様に、この車輪のメカニズムこそが、私たち人類による文明システムそのダイナミックな運動を生み出す根本的な展開因に他ならなかった。
それは遥か昔、古代文明の時代から現代に至るまで、回転する車輪は一貫して『最重要基幹技術』であり続けて来たのだ。
そもそもは、それは重いものを効率よく移動するための『丸太のコロ』だったという。それはやがて円盤プレート状の木製車輪へと進化し、およそ4000年前のある時、あのインド・アーリア人の祖先によって木製スポーク式高性能車輪が開発された。
それは古代オリエントにおいて大文明を生み出す原動力となり、ギリシャ・ローマをはじめユーラシア全土の文明へと受け継がれていった。それがインドにおいて壮大なるチャクラ思想を生み出した歴史についてはすでに述べた。
インドだけではなくユーラシア全ての文明圏で、車輪をつけたチャリオットは、勢威ある武王や神の権威を象徴するモチーフとして、彫刻や絵画における主要なテーマとなった。
勿論それは単に戦いのためだけの技術ではなかった。物資や人員の輸送手段として、風車や水車として、あるいは滑車としてロクロとして糸車として、機械的な動力伝達の歯車として、それは人類社会の運動を根底で支え、日々の生活に利便性と豊かさをもたらしていった。
その重要性は産業革命を経て物質科学文明が高度に花開いた現代に至っても変わらず、一貫して基幹システムとして社会の運動を支え続けている。
およそ私達の生活の中で、回転する車輪のメカニズムによらない運動機械が存在するだろうか。自転車、バイク、自動車、電車はもちろん、空を飛ぶ飛行機でさえ、そのエンジンは回転運動に依存し、もちろん車輪がなければ滑走する事さえできない。
さらに、身近な扇風機や洗濯機に始まって風車や大型タンカーに至るまで、車輪の応用から生まれたプロペラによって働くマシンは数えきれない。
それは内部のメカニズムにおいても変わらない。上述のあらゆるマシンを含め、アナログ時計から始まって大規模な工場に至るまで、全ての機械的な運動メカニズムは、車輪から発展したエンジン・モーターと歯車の回転によって命を与えられている。
それが水力であれ火力であれ、原子力であれ風力であれ、全ての発電装置は車輪から派生したタービンの回転によって電気を生み出している。現代文明を支える化石燃料もまた、地下を掘り進む掘削ドリルの回転する力によって地上にもたらされ、輸送車の車輪や船のプロペラによって運ばれるのだ。
回転する車輪のメカニズム。正にそれこそが運動力の根源として文明の全てを支えている。この事実に気付いた時、私はひとり言葉を失っていた。
生命を支える車輪
そして、車輪的な回転運動が支えているのは、物質文明だけではなかった。
生物は、目に見える運動器官としては、回転する車輪のメカニズムをついに獲得できなかった、と私は書いた。確かに、広く生物界を見渡して見ても、車輪によって運動したり移動したりする生物は存在しないように見える。
けれど、ここに驚きの事実があった。
ネットで車輪の歴史について調べていた私は、偶然ヒットしたページを読み進めていく内に肌が粟立つような感覚に襲われていた。
私達の身体はおよそ60兆の細胞によって構成されている。最も原初的な単細胞生物から人間の体細胞に至るまで、その活動はATP(アデノシン三燐酸)と呼ばれるエネルギーによってまかなわれている。そしてこのATPが代謝されるシステム、それこそが正に回転する車輪のメカニズム(実際の姿はモーターに近いがここでは車輪と呼ぼう)だと言うのだ。
それは大きさにして百万分の一ミリというナノ分子の車輪。これが回転してATPを合成代謝する事によって、バクテリアから人に至る全ての生命活動は維持されていた。
私たちの全てを生かしている目に見えない極微のモーターは、確かな中心を持ちそこから放射円輪状に展開し転回する、見事な『チャクラ』だった… しかもβサブユニットは6つに分かれ、回転するcサブユニットは12分割のチャクラ・デザインで、私的にはこの絵柄を見ただけでもうシビれてしまった(笑)
このATP合成モーターに類似するものとして、サルモネラ菌や大腸菌など細菌の運動器官である鞭毛が『タンパク質モーター』という高速回転機構によってその動力を得ていて、どうやらそれはATP合成モーターの起源とも関りあるようだった。
これら極微のモーター機構が、地球生命40億年の進化史上いつ獲得されたのかは分からないが、ひとたび回り始めたその時から、それが数十億年間一度たりとも止まっていない事だけは間違いない。
今この瞬間も私達の身体の中では、数え切れないナノ・サイズの車輪がそのリズムを刻み続けている。それは地球生命そのものを生かし続けてきた、文字通り『転回力』だった。
面白いことに、真核生物においてATP代謝の舞台になるのは呼吸を司るミトコンドリアで、私たち人類を含め有性生殖をする高等生物の場合、ミトコンドリアは母親の卵子に由来すると言う。それはまるで、車輪であり女性原理であるプラクリティ=シャクティが、輪廻する現象世界すべての展開力であるというサーンキャ哲学の『仮説』を、見事に証明しているかの様にも見えた。
ここで私は思い出していた。世界の維持を司るヴィシュヌ神、それは三界の『全てに浸透し支える存在』だった。
チャクラというシステム、その中心軸をもった回転運動や構造デザイン。それは天にも地にも世界万象のあらゆる次元に浸透し、その運動を維持し推進・展開していた。
それはあたかも、クリシュナがアルジュナ王子の乗る戦車の御者の姿をとりながら、実は主宰神そのものであった様に、様々な形で神威を象徴するチャクラこそが、実は世界を展開させる神そのものの顕現であるかのように。
あたかもダルマを象徴したチャクラこそが、実は神理そのものの現われで、あったかのように。
『ダルマ』という言葉が持つ本来の意味、それは『世界を支え保つもの』だった。ならば『ダルマ・チャクラ』という言葉の真の意味は、『世界を支え保つ車輪』に他ならない。
有史以来一貫してチャクラを神威の象徴として奉じ続けたインド人の感性に、私は改めて、深い感銘を覚えずにはいられなかった。
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