ブッダの転法輪とアショカ大王
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話を紀元前500年前後、ブッダが活躍した頃に戻そう。
ガンジス川の上流域、現在のデリー周辺を拠点とし純粋なアーリアの血を誇ったバラモン達は、農村社会を基盤としたがんじがらめのカースト秩序を構築し、祭祀を独占する最上位の特権階級として人々の上に君臨していた。
彼らは、ガンジスの中、下流域をヴェーダの及ばない世界の果てと呼び、そこに住む人々を混血族、あるいは蛮族と蔑んでいた。
けれども、その時点ですでに経済力に関しては、その蛮族のほうがアーリア主導の社会を遥かに凌駕しつつあったのだ。
基本的に商業を賤業として蔑んでいた保守的なバラモン文化に比べ、先住民文化が優越する中、下流域の人々はリベラルであり、アーリア人の優れた文化(特に戦車の製作法や冶金学、数学や天文学、豊かな言語概念)を咀嚼して以降は、むしろ先住民のほうが経済力や軍事力において台頭してくる。
ブッダの時代、ガンジスの中、下流域にはいくつもの商業都市が繁栄していた。この地域には多くの新思想家が現われ、インド思想史上、百家争鳴とも呼べる黄金時代を築いた。
62見とも呼ばれた多様な思想に多く見られたのが、ヴェーダの権威とバラモンの祭祀、中でも犠牲獣を捧げる供儀の有効性を否定する立場だった。そしてもうひとつ、バラモンを頂点としたヴァルナの身分差別も批判の的となった。
恐らく当時マガダ国周辺では、土着のドラヴィダ系、北東から来た稲作民のモンゴロイド系、西から来たアーリア系がそれぞれ棲み分けながらも一部混血が進んでいたのだろう。
そのため都市に住む自由な経済人たちは比較的人種差別意識が少なく、伝統的なバラモン教については表立っては敬いながらも批判的な気風が強かった。だからこそ新しい思想がそこで生まれ育ち、王侯から下層民に至る全ての人々に歓迎されたのだ。
そんなマガダ地方のど真ん中に、彗星の如く現れたのがゴータマ・ブッダだった。それは人々にとって、正に待望された救世主の登場となった。
この頃、ガンジス川の中、下流域では16大国が栄えていた事はすでに述べた。その中でも、ブッダ、つまりシッダールタが生まれたシャカ族は、よりリベラルな共和制を敷いていた。私はこのシャカ族を、稲作を行うモンゴロイド系の先住民と考えている。
シッダールタの父王シュッドーダナの名前が漢訳の「浄飯王」にも明らかなように「清らかな米飯」を意味し、彼らが稲作民だったことを示唆している。おそらく、現在のアッサム州周辺に先住したモンゴロイド系の稲作民と同じ流れが、当時はネパールのタライ平原から北インド一帯にかけて広がっていたのだろう。
シャカ族に戦士階級クシャトリアの王子として生まれたシッダールタは、上流階級の常として幼少時にはヴェーダを学ばされた。だが長じて人生の苦に目覚めると、ヴェーダやバラモン教が彼の苦悩を解決する力を全く持たない事に深く絶望していく。
そしてついに29歳の時、妻子を捨てて王城を出奔し、魂の真実の救済を求めて出家修行者(沙門)の道を歩き始めた。
この求道する沙門たちは、盛大な祭祀を催し大枚の布施を得て奢侈に耽るバラモンたちとは対照的に、つつましやかな清貧を旨とし禁欲と遊行の修行生活を行い、輪廻からの解脱・不死、をその理念的なゴールとして掲げていた。
当初シッダールタは、マガダ国周辺で名を知られていた様々な師匠を巡り見聞を広めたが、やがて二人の瞑想行者に師事し修行に励んだ。
前回投稿で瞑想するシヴァ神像を掲載し、その座姿が直接的にインダスの「座の行者」を継承していると書いたが、ブッダの時代すでにこの座の瞑想というものが非ヴェーダ的なオルタナティヴな「森の伝統」として盛んに実践されていた。シッダールタはそのような先師についたのだろう。
二人の師匠の下で修業した彼は短期間の内にそれぞれの最高レベルの境地に到達してしまう。しかしそれは彼の苦悩を解決するものではなかった。
失望した彼は、当時もうひとつの主流だった断食や荒行などの苦行に飛び込んでいく。しかし6年が過ぎても、どのような成果をも得る事ができなかった。
断食行のために痩せさらばえた彼は、絶望を抱えた死の直前に苦行林からさ迷い出て、偶然のように優しい村の娘スジャータと出会う。その身を案じて彼女が捧げたミルク粥を食べた彼は、翻然と苦行の無力を悟り、川で身を清めたのち、ひとり菩提樹の下で禅定に入った。それは、覚りを得ない限りは二度と立ち上がるまいという、大いなる決定心だった。
一説には、彼は幼い日にナチュラル・ハイのようにして禅定に入った経験があり、その記憶をこの時蘇らせたのだとも言われる。他者から教えられた苦行によって痩せさらばえて死ぬよりも、自らの天性に還って死に至るまで禅定を極めることの中に、一筋の光明を見出したのかも知れない。
仏伝によれば、彼の禅定をマーラの大軍が襲って妨害したと言う。魔族たちは恐ろしい戦士の姿をとって彼の頭上に刀を振りかざし、あるいは狡猾な笑みを浮かべながら耳元で修行の中断をそそのかし、裸の美女は目の前で妖艶に腰を振って彼を誘惑した。
これは恐らく、そのような悪魔が外からやって来たのではなく、彼の内面的な煩悩と葛藤の噴出だったのかも知れない。どちらにしても彼は、それらに打ち勝って動じなかった。
そしてついにある『瞬間』が訪れ、忽然と彼は覚りを開く。その時、彼が相対する東天には、明けの明星が涼やかに光り輝いていたという。
その後、サールナートにおける最初の説法を皮切りに、ブッダの教えは燎原の炎のように北インド・ガンジス川流域に広がっていった。ヴェーダの呪の力という曖昧な観念を離れ、徹底的に人生の苦とそこからの救済に焦点を合わせた彼の教えは、やがて四諦八正道としてまとめられた。
彼は平易に説いた。人間の運命を決めるのはカーストでもなくヴェーダの呪文頼みの祭祀でもない。どのような思いに基づいて、どのように行為するのか。それが人の運命を左右する最も重要な『因果』なのだと。
それはどこまでも理知的な世界の『ダルマ』として、解き明かされた真理として、当時の人々に革命的な意識の変革をもたらしていったのだ。
やがて、その偉大な覚者としての歩みが回転する聖なる車輪に重ね合わされて、転法輪のイメージが確立していく。それは遠くインドラの時代(あるいはそれ以前)に成立した武神チャクラと太陽神スリヤ・チャクラの思想が、瞑想する先住民のチャクラ・ヴィジョンと結びついた果てに生まれた、真の意味での聖チャクラの誕生だったのかも知れない。
(ブッダの「転法輪」というコンセプトが誕生した経緯その詳細については、また話が長くなるので別投稿にて突っ込んで論じたい)
ヴェーダの権威とバラモン祭祀の無効性を説き、カースト差別を完全に否定したブッダの教えは、リベラルな都市の住民達に歓呼をもって迎えられた。しかし、まさに仏教が持つそのリベラルな性格こそが、その後のインドにおける仏教衰退の原因となる事など、当時誰一人想像すら出来なかっただろう。
その後、紀元前3世紀にインド亜大陸を統一したアショカ王によってブッダの法輪が大々的にフィーチャーされ、インド全土でチャクラのシンボルはブレイクする。それまではアーリア人とその文化的影響下にあった周辺地域に限られていたチャクラが、全インド世界の普遍的シンボルとしての地位を確立したのだ。
ちなみに、マウリア朝を生み出したマガダ国は、デリー周辺の純血を誇るバラモン達からは先住民シュードラの国として長く侮蔑されていた。それが今や誇り高きバラモン達をも飲み込んで、しかも本来アーリア人に由来する聖車輪を掲げてインド全体の覇者になったのだから、歴史とは皮肉なものだった。
それがブッダ以前か以後かは判然としないが、古来北インドには『転輪聖王』の思想があった。アショカ王のダルマ・チャクラは、これと深く関わっていたという。
ひとつの伝説が残されている。
この世界に理想的な王が生まれると天空に輝ける黄金の輪宝が姿を現し、王がそれに従って進むとその進路に当たる諸王は戦わずして彼に服従し、世界はこの転輪聖王の輝ける輪宝のもと、武力ではなく法と徳の力によって治められ、統一されるという。
アーリア人が侵入して以来、北インドでは戦争に次ぐ戦争によって民心が疲弊していたのかも知れない。ラタ戦車を駆って敵を征服する転輪武王が賞賛される一方で、その水面下では確実に、深い厭戦思想が広がっていた可能性が高い。
そんな彼らが生み出したのが、この武力に依らずに世界を統べる理想の王、転輪聖王の姿だった。それはヴェーダにおいて蹂躙する武力の象徴だったラタ戦車の車輪が、非戦の象徴になっている事にも表れている。それは本来、現実にはあり得ないあくまでも理念的な、夢の様なユートピアに過ぎなかったのだろう。
だがカリンガ戦の惨禍を目の当たりにして深く悔い改めたアショカ王は、果敢にこのユートピアの建設を発願したのだ。
彼は広大な帝国全土にダルマ・チャクラを掲げた石柱を立て、道路を整備し、産業を振興し、薬草を植え、全土に治療院を建て、無意味な殺生を禁止し、人間関係におけるモラルの確立を促した。
現代に伝わる彼の治績の数々は、ある意味現代社会が理想とする世界を、二千数百年も前に先取りしたものだったとも言えるかも知れない。
その根本にはブッダの教えがあった。アショカ王はバラモン教を含むすべての宗教を等しく保護しつつも、カースト差別や動物の供儀に対してはこれを厳しく批判している。そして、何よりも銘記されるべきは、彼によって仏教がインドの地域宗教から世界宗教へと雄飛した事だろう。
彼は、帝国内部はもとよりスリランカや東南アジア、現在のアフガニスタンや遠くギリシャ世界に至るまで仏教使節団を送り、ブッダの教えを伝えていった。
タイのナコーン・パトムと言う町の名はパーリ語で『最初の町』を意味し、アショカ王の使節によって東南アジアで最初のストゥーパがここに建てられたという。そこで発掘された石でできた古代の法輪は、彼の事績を記念するかのように、今もプラ・パトム・チェディ寺院の博物館にひっそりと展示されているのだった。
おそらくアショカ王は、自らを転輪聖王になぞらえていたのだろう。武の王を極めた挙句にそれに絶望した彼は、ブッダの法輪を輪宝に見立てて、それを掲げる事によって、徳と法に基づいた理想の転輪聖王にならんと、発心したのではないだろうか。
残念ながらその企ては彼の死によって潰えた。けれど彼が残した車輪の轍は、その理想は、時と場所を変えて脈々と受け継がれて行く事になった。
その後のインド諸王によって、アショカ王は理想の大王として憧憬され、アショカ大王になぞらえてブッダの法輪を掲げる事が、その王権の正当性と聖性と偉大性の証明とも考えられる様になっていった。それは云わば、アショカ・コンプレックスとでも言うべきものだったかも知れない。
その感化力は、遠く日本にまで及んでいる。
アショカ王に関しては、阿育王の名前で漢訳の仏典にも多く取り上げられており、インド史上最も偉大な仏法王である彼の事績は、仏教を取り入れたばかりの古代日本の為政者たちに少なからぬインパクトを与えたのだ。
滋賀県東近江市にある石塔寺は、その名も「阿育王塔」と呼ばれる日本最古の石塔をその名の由来とし、創建は聖徳太子と伝えられている。
大陸から優れた文物を取り入れ、法隆寺の五重塔はじめ多くの寺院を建立し、冠位十二階や十七条憲法を制定して天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を進めた聖徳太子。
その十七条憲法の二条には次のように記されている。
この「宣言」には、聖徳太子が自らを阿育王に見立て、仏教を中心に理想の国造りを目指した強い自負心が、まざまざと現れてはいないだろうか。
同じ聖徳太子によって建立された大阪四天王寺は、病者のための施療院や施薬院と老人のための悲田院を備えており、その精神はアショカ王の福祉政策をほうふつとさせる。極楽門と呼ばれる西大門に設置されている回転する法輪は、転輪聖王アショカに対するオマージュかも知れない。
古代日本の一時期、アショカ王に対する熱い思いが大きな機運となって、政治や社会ひいては「国造り」そのものを動かしていたのは、まず間違いないだろう。
もうひとつ、これに関しては明確な証拠を提示できないのだが、個人的な思いとして取り上げたいものがある。それは皇室の菊の御紋だ。
日本の皇室の象徴である菊の御紋は、美しい八重16葉の菊華輪デザインをしているが、それは見方を変えれば16本スポークの車輪とも重なる。私はインドを隈なく旅する中で、この菊の御紋と酷似したチャクラ・デザインに何度も遭遇している。
また16葉というのは8の倍数で、上のタミルの例を見れば明らかだが8葉、つまり八正道のブッダの法輪を隠している、という解釈も可能だ。前掲の四天王寺転法輪を振り返れば、8本のスポークに8つの隙間で16になる。
日本の皇室といえば、仏教が大陸から伝来して以来一貫してその外護者として中心的な役割を担ってきた。その先駆けこそが聖徳太子だ。また、代々の天皇や皇族たちの多くが、自ら出家して仏道にその身を捧げている。
仏典に記された阿育王の事績にインスパイアされ、瑞穂の国の転輪聖王たらんと発願した古代の天皇たちが、国家の平安と繁栄を祈念し、菊の形に重ねて法輪を掲げて来た、というのは深読みが過ぎるだろうか。
少々話が脱線してしまった。本題に戻ろう。
アショカ王自身の理想の帝国は極めて短命に終わったが、インド全土を一体化し様々な文化の共有を促したという点でも、大きな役割を果たしたと言えるだろう。中でも最も重要なもののひとつが、宗教建築・美術の分野だった。
実はこのテーマ、聖徳太子を嚆矢としその後日本全国に建てられていく「五重塔」とも深く関わってくる。
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