第二、第三のチャクラ(車輪)
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ある日、武術取材の合間にプリーの町をぶらついていた私は、ふと見上げたジャガンナート寺院の尖塔に車輪のような装飾を発見して、何気なく地元の少年に質問してみた。すると、彼はごく当たり前のように、
「あれはスダルシャン・チャクラだ」
と答えたのだった。
スダルシャン・チャクラ!?
初めて聞く単語に当惑した私は、咳き込むように、それは何だと訊ねた。すると彼は、そんな事も知らないのかと言いたげに、
「ヴィシュヌ神が悪魔を滅ぼすための武器さ」
とさらりと言ってのけたのだ。
それは別名『ニーラ・カーラ・チャクラ(青い時の車輪)』とも呼ばれるという。
実はジャガンナート寺院は、ナットドワラのシュリナート・ジー寺院と同じようにクリシュナ神を主神として祀っていた。それは同時にクリシュナをアヴァターラとするヴィシュヌ神を祀っている事を意味する。
聞けば、世界の維持を司るヴィシュヌ神は、この世が乱れ悪がはびこり正義が失われた時、アヴァターラの姿をとってこの世に光臨し、破邪の究極兵器スダルシャン・チャクラを投じて悪を滅ぼし、正義を回復するのだという。
ジャガンナート寺院の尖塔に掲げられた車輪は、その破邪の力を世界に放射し人の世をあらゆる災いから守護する、ヴィシュヌ神の象徴だったのだ。
破邪の究極兵器スダルシャン・チャクラ!
その響きはとても新鮮で、武術オタクである私の心を大いに揺り動かした。チャクラと言えばブッダのダルマ・チャクラしか念頭になかった私にとって、スダルシャン・チャクラの存在はある種晴天の霹靂だった。
そして、ブッダの転法輪以外に車輪のイデアが存在したという事実は、さらにもうひとつ、別の車輪がある事を私に思い出させた。それはプリーの北、ベンガル湾の海岸に面した遺跡の村、コナーラクだった。ここにある世界遺産の太陽寺院は、その巨大な車輪の造形で有名だったのだ。
私はその地をやはり10年前に訪れている。13世紀に建てられたこの巨大な石造寺院は、確か、太陽神スリヤが乗って天空を駆け巡る、神的チャリオットに見立てた造形だった。そして、その巨大な車輪はスリヤ・チャクラと呼ばれていたはずだ。
ラタ戦車と言えば直ぐにもうひとつ思い出した。ジャガンナート寺院の例祭ラタ・ヤットラは巨大な山車に御神体を乗せて町をパレードする事で有名だが、この山車がラタ戦車を模した物だった。この山車の巨大な車輪に轢かれて死ぬことによって全ての罪が清められ天国に生まれ変われるとして、かつては多くの熱烈な信者達がその下にわが身を投げ出したとも言う。
叙事詩マハバーラタ(バガヴァット・ギータ)の中で、クリシュナ神がラタ戦車の御者に扮して戦うエピソードも有名だ。私自身も下の様な絵柄をインド全土至る所で見てきた。
私の脳みそはイモずる式に記憶を紡ぎ出し、急速に回転し始めていた。
考えてみれば、ヨーガだって身体の中の霊的センターの事を『チャクラ』と呼ぶ。あれも身体の中の『車輪』ではないのか?
何かが背筋を、ゾクゾクと駆け上がっていくような感覚に襲われていた。
そもそも根本的な疑問として、何故、ブッダの布教の歩みが車輪の回転に例えられたのだろう。
それは何故、
『車輪』でなければならなかった
のだろうか。
ヴィシュヌ神が悪を滅ぼす究極兵器も、何故、同じようにチャクラでなければならないのか。
太陽神スリヤは、何故ラタ戦車に乗って天空を翔け、巨大な車輪によってその神威が象徴されるのだろうか。
そして何故、ジャガンナート神はラタ戦車に乗って行幸し、その車輪には魂を救済する力があるのか。
何故ヨーガにおいて体内の霊的センターはチャクラと呼ばれているのか。
これら全く異なった文脈の中で共有されている「チャクラ」と言う概念は、たまたま偶然の符合に過ぎないのか、それとも何かしら共通する思想基盤があるのだろうか?
どちらにしても、インドの宗教思想の中で車輪あるいはその車輪で走る「ラタ戦車」というものが、何か重要な意味を持っているのは明らかだった。
そう思ってプリーの町を歩くと、驚いた事に町には車輪のデザインが溢れていた。民家のベランダの手すり、ブロック塀のデザイン、寺院の壁に描かれたペインティングなど、無数の車輪がそこかしこにあしらわれている。
宗教思想だけではなく、人々の日常生活の中にも、チャクラの形は浸透していた。ひょっとすると、この様な『チャクラ嗜好・志向』とでも言うべき感性が、インドにおいて棒術の回転技を発達させた理由なのかも知れない。
それにしても何故、他でもない車輪なのか。謎はその一点に収斂されていった。
しかしこの新しい視点は、私の中でしばらく棚上げとなった。旅の途上では集中して資料を調べて研究する事も難しい(この頃はスマホも存在せず私はPCも持ち歩いておらずネット環境は遅いネットカフェのみ!)。それに思想的な事よりも、今はもっと大事な仕事がある。
私はこの「チャクラの謎」に後ろ髪引かれつつも、オリッサから一路南下してタミルへと向かったのだった。
これまでの見聞で、インド武術の優位性はそのエクササイズにこそあると見ていた私は、その精華とも言えるマラカンブとカラリのメイパヤット、そして棒術の回転技を三本柱として前面に押し出していく方針を固めていた。
そのために、今回携えたビデオ・カメラが大きな力になるはずだ。クシュティやカラリパヤットが醸し出す古式ゆかしい世界観を伝えるためにも、ビデオは欠かせない。それらの映像をもれなくカメラに収め、ウェブ上で紹介する事こそが今回のミッションだった。
私はタミルからケララへと多くの道場を訪ね、歴史、思想を学び、ビデオを収録、収集した。合わせて棒術・回転技のバリエーションを増やすべく教えを請うた事は言うまでもない。道場だけではなく、いくつかの競技会に参加してトップレベルの選手たちの妙技をビデオに収める事もできた。普通の観光など全く出来ないような忙しい日々の中、多くのマスターたちが無償で協力してくれた事は、大いに私を励ましたのだった。
この南インドを巡る過程で、モチは餅屋と言うべきか、北インドにおける伝統武術の情報も次第に入ってきた。パキスタンと国境を接する北西部のパンジャブ州には、シーク教徒によって伝承されるガトカと呼ばれる武術、マハラシュトラ州にはマルダニ・ケルという武術が存在し、北東部のミャンマー国境に近いマニプル州にはタンタという武術がモンゴロイド系の人々によって伝承されているという。
さらにヨーガの聖地としても知られるリシュケシュには、ヴャヤムという太極拳の様な武術的エクササイズが保存され、ヨーガやダヌル・ヴェーダとも深いかかわりを持っているらしい。
ガトカやマルダニ・ケル、そしてタンタにおいても棒術の回転技が実践されていると言い、どうやら回転技の分布が亜大陸全体に及ぶという事が、ここに確認できたのだった。
明くる2007年春、私は帰国の途についた。インド滞在中の1月末、ある空手雑誌からインド武術に関する記事の執筆依頼が入っており、それが日本での最初の仕事となった。そのかたわら印度武術王国サイトに旅の成果を反映させる一方、当時注目され始めていたユーチューブにアカウントを開いて収集した動画をアップし、少しずつ相互リンクを完成させていった。
そうして当面の仕事に目途をつけた私は、旅の途上もずっと気がかりだったチャクラの謎に、改めて向き合う事となった。
秘められたチャクラの謎その背後に、回転技の真実が隠されているに違いない。仕事をしながらサイトを更新し、合わせて棒術の稽古を続けるという忙しい毎日を送りながら、私は同時に、チャクラ思想の歴史を知るべく様々な文献を渉猟し、ネットを漁って情報収集に努めた。
その結果、驚くべき事実が明らかになる。
チャクラ思想の起源。少なく見積もってもそれは紀元前2000年、つまり今から4000年もの昔に遡るものだったのだ。
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