汝ら断食するとき
まるで夢遊病者のようのようだと自分で思う。
そもそも意味など無いのだとようやく理解したのだ。やれ真実の人生だ、 やれ真理の希求だなどと大層なことを宣ってはいるが、実のところ本人にもなんらわかっちゃいねえのだ。なんのことはない。だから「夢遊病」と形容してみた。この表現が一番しっくり来るのだから仕方がない。何かと大義名分を打ち立てずには碌に言葉も発せれないのかとただ呆れるばかりだ。
事実を話そう。
先日ある人から卑小なナルシズムと酷評され、なるほどなと冷静な面持ちで首肯しつつもその実、動揺を隠せず、おっかなびっくり、まるで奈落の底に突き落とされたかのように意気消沈してしまった次第なのである。私の大義名分なんて所詮こんな程度のものだ。
「ロマンティシズムは差し詰め極上のワインのようなもの」と言っておこうか。思いの丈を吐露することで、「孤独や不安が多少なりとも解消されるのでは」というささやかな願いも結局叶いはしないのだからもはや“誰得”の世界である。
「他にすることはないのかね」
という声が聴こえてくるようだ。
所詮人生というものは苦しいことばかりなのだから、せめて刹那的でも苦痛を和らげるような清涼剤のような役割は果たせないものか。
散々御託を並べたあげく、「人生は酸鼻だ」などと分かりきったことを言われたところで、互いに顔を見合わせながらただ苦笑いするしかなかろう。そんなもん誰が聞きたいもんかね。
その点コメディアンは偉いと思う。このように暗い世相にあっても決して雰囲気に流されることもなく悲壮感を一切出さない。あれこそが究極的な奉仕の精神と言うべきではないか。同じ「滑稽」でもどうせ表現するなら明るい方が好まれるに決まっている。
「破滅型」
自分は紛れもなくそれだと思った。断崖を見つけては興味本位にそこから下へ飛び降りたい衝動に駆られ、そのスリルと興奮に酔いしれる。そんな危険な病が自分の中に巣食っているのかもしれない。この半生を振り返ってみても破滅への階段を着実に登っているように思える。この頃そのことに薄々気づき始めて、「これはいかん」としばらく沈思して「自己破滅」から逃れる術はないかとあれこれ思案した。結論として、長年に渡り自分を苦しめてきた病の根源は結局コンプレックスにあるに違いないのだから、つまるところそいつをどうにかして取り除いてしまえば解決するのではないかと考えてみた。そこで処世術やら自己啓発に関する書物を漁ってみたのだがこれがどうもダメなのだ。どんなカリスマ性を持った言葉もちっとも臓腑まで入ってきやがらない。雲消霧散。やんぬるかな。どうやら自分の病は細胞レベルまで浸食しておるようである。となればDNAの配列でも変えなければ修復は不可能かもしれない。
天性の「自分嫌い」はなかなかの強敵であるようだ。何も考えず、何も思わず、ただ生きてあればよい。