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『2.25の4コマ』再批評


はじめに──なぜいま『2.25の4コマ』を?

 ひと言で言えば、んぷとら氏の以下の記事を読んで書きたくなったから。「いとととの 現代4コマ展」で一番理解できなかったのが『2.25の4コマ』であったことを思い出したのだ。よい記事なので、こちらもぜひ読んでいただきたい。↓

 『2.25の4コマ』とは展覧会以降も因縁がある。一応これまでの経緯を書いておこう。

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 私は「現四通信 6月号」にて『2.25の4コマ』を批評した。

 この草稿を書き上げたのは4月だったのだが、実際に掲載されるまでのあいだにその文章に対して未熟なものを感じた。ゆえに私は6月号発刊と時を同じくして、批評のときに用いた「概念の4コマ」という理論に基づき、さらに発展させた記事を世に出している。

 しかし上記の記事もまた不完全だった。8月に「現四通信ラジオ」に呼んでいただき、6月号の振り返りをしたとき、「概念の4コマ」論を乗り越えるべく「4コマの4コマ(メタ4コマ)」論を打ち出した。

 こちらはやや難解だった。いまも基本的な考え方は変わっていないのだけど、それでも記号学等に対する私の理解がブラッシュアップされたいま、「4コマの4コマ」もまだまだだったなと感じている。

『2.25の4コマ』再批評

 今回は皆さまに『2.25の4コマ』のすごさを伝えられるよう、なるべくわかりやすく再批評したいと思う。文章量は「現四通信批評選集」と同じく、1,000文字程度に収めよう。6月号のものと比較しながら読んでいただけるとうれしい。

現代4コマ批評選集『2.25の4コマ』

再批評

※都合により数字は全角にしている。

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 「現代4コマ」というカルチャーは、あまねくものを4コマにしようと企む。4コマとそれ以外を区別しなければ、庭の片隅に息づくシロツメクサも、あの日聴こえた潮騒も、積み上げられた歴史さえもが4コマとなる。
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 虹の色の数は国によって異なる、というのはご存じだろうか。私たちは自然にもとからあった秩序に名前をつけたのではなく、言語活動を通して世界をカテゴリ化し、見かけ上の秩序を与えてきたのだ。ゆえに母国語に根ざす文化が異なれば、世界の捉え方も変わってくる。                
 私たちの日常は凝り固まっている。「葉が4枚あるとラッキーな植物はシロツメクサ」であり「潮の波打つ音は潮騒」である。これは常識だ。しかし当たり前の現実性というものは、言葉の作用によって事後的に喚起されたものであることを忘れてはならない。  
 虹の例からもわかるように、言語記号が持つ音のイメージと概念とのつながり、そしてそれが指し示す事象との間に、必然性などはまったくない。             
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 『2.25の4コマ』は特に野心的な作品と言えよう。普段は自然言語を話している者ならば、誰しもが本作の4コマ性について疑問を覚えるだろう。なぜならそれは「4」でも「コマ」でもないように見えるから。これは本当に4コマか? という問いはいつでも妥当である。この疑念に対する『2.25の4コマ』からの回答は、至ってシンプルなものとなるだろう。ようするに「9を2.25で割れば4になるから」ということだ。  
 思い出そう。秩序は言語によってかたち作られていることを。世界を分割する線など存在しなかったということを。『2.25の4コマ』は、虚構の安寧にしがみつく私たちを糾弾する。そのこじつけにも見える論理は、逆説的に日常の滞留を示唆しているのだ。 
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 「現代4コマ」は世界に引かれた境界線を無に帰す。そして独自の言語システムを用いることで、既存の言語観に基づいた秩序に対抗する。                
 しかしこの営みは暴力的であってはならない。構築されてきた歴史に敬意を払い、丁寧に破壊するのだ。『2.25の4コマ』は、これからも破壊活動の先駆けであり続ける。 

おわりに

おっ

 あまり意識していなかったけど、空白を含めてぴったり1,000文字になったぞ。

 基本的には『2.25の4コマ』を賛辞しているが、あくまでもこれは「批評」である。直接的な批判はしていないものの、「現代4コマ」という文化、そして『2.25の4コマ』の持つ破壊的な力を皮肉り、警鐘を鳴らすものとなっている。
 私たちのように「現代4コマ」を知る人びとは、独自の言語システムと世界観(私が「4コマの4コマ」と呼んだものだ)に基づいて、日々4コマを探している。この事実はしっかりと覚えておこう。

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