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現四通信ラジオ6月号振り返り原稿 #現代4コマ

 こちらは現四通信サーバーにて2024年8月23日に開催された、「現四通信ラジオ 6月号振り返り」の原稿です。「4コマの4コマ」という概念についての試論となっております。『2.25の4コマ』の解説に際して「概念の4コマ」を提唱したのですが、時間がたって理論のほころびを感じたため新たに「4コマの4コマ」というものを定義しました。
 あくまでも試論であり、今後理論の変更が生じる可能性があります。いずれ体裁を整えて「概念の4コマ 試論」のように投稿したいなあ……。

要約
・用いる言語体系(コード)ごとの現実世界(リアリティ)が存在し、私たちはそれに従い物事を認識している。

・言語体系では記号のルールが定められている。

・記号は記号表現と記号内容からなる。

・記号はコードの解読とコンテクストの解釈により読みとられる。

・たとえば「網膜音楽」はコードの解読によって作家(発信者)が想定した音楽を鑑賞者(受信者)が認識し、「網膜ボカロ」では作家が生み出した架空の音楽を解釈することで、鑑賞者ひとりひとり異なる音楽を認識する。

・「4コマのリアリティ」では「4コマの4コマ」というシステムが存在し、4コマのコードやコンテクストがこれにあたる。

・システムを通して私たちは4コマを認識、生成する。

・システムを知らない人に現代4コマを理解してもらうことは難しいため、積極的に発信して輪を広げていこう。

以下が原稿となっております。

「概念の4コマ」論からの変更点

・概念の4コマ→4コマの4コマ(メタ4コマ)
・形而上、形而下という言葉は使わない
・「イメージの領域」「言語の領域」の使用

「4コマの4コマ」とは

「4コマの4コマ」イメージの領域言語の領域(言語の領域のなかでも4コマのリアリティ)を繋ぐシステムである。

 私たちは「現実」というものを言語的な枠組みを通して認識している。「これが現実だ!」と思っているものも、言葉を使わなければ説明できない。この言語的に説明される領域を「言語の領域」、ひとりひとりの頭のなかにある想像の領域を「イメージの領域」とする。

 言語の領域はいくつにも分かれている。「イメージの領域」でも「言語の領域」でもない「現実の領域」と区別して、ここでは「リアリティ」と呼ぶ。※1
 それぞれのリアリティにはそれぞれの言語の体系がある。たとえば、普段の私たちは日本語の言語体系をもつリアリティのなかに身を置いている。数学でこの世界を表現しようとするなら、数学のリアリティがある。そして4コマは4コマのリアリティにおける言語体系を用いることになる。

※1
「現実の領域」「言語の領域」「イメージの領域」という言葉は、ジャック・ラカンが生み出した用語「現実界」「象徴界」「想像界」を着想源としています。というかほとんど言い換えです。そのままだと分かりにくいと思うので……。
リアリティは私が勝手に生み出した言葉です。基本的には「○○の言語体系のリアリティ」にその言語を用いる人たちが帰属しているのでしょう。ただし究極的にはひとりひとりの言語体系とリアリティがあり、コミュニケーションをとるときは互いの言語体系のコードとコンテクストに依拠して、記号の交換を行っているのではないかなと考えています(記号やコード、コンテクストについては後述)。
リアリティと言語体系には、マクロ的な見方とミクロ的な見方の両方があるわけですね。

記号論の話

 ちょっとここで記号論の話をする。なるべく分かりやすく。
 記号論とは、「あらゆるものを記号としてとらえ、その性質にせまる学問」みたいな感じのものだと思う。

 記号記号表現記号内容から成り立っている。
 日本語で「犬」と言うときこれが記号表現、「犬」が指し示す概念が記号内容ということになる。

犬……犬(という言葉、記号表現)

 犬(の概念、記号内容)

日本語の言語体系のなかではこうだが、英語の言語体系では「dog」という記号表現に「犬の概念」という記号内容が対応する。

 さて、なんども「言語の体系」という言葉を出しているが、これはコミュニケーションをとるにあたって伝達される記号表現と記号内容、そしてそれらの結びつきのルール(会話に使う言語なら辞書や文法など)のことで、「コード」とも呼ぶことにしよう。
 私たちはリアリティごとに定められたコード(言語体系)を使ってコミュニケーションをとっている。たとえばAさんの目の前に犬がいて、それを電話越しのBさんに伝えるときを考えよう。
 まずAさんは日本語のコードを参照して、「目の前にあるのは犬と表現される記号である」という記号化を行い、Bさんに伝達する。BさんはAさんが「犬」と発したのを聞いて日本語のコードを参照、解読し、「犬という記号表現がさすものはあの『犬』という生物(概念)である」と理解する。
 このように、われわれは日常的にコードを解読している。ただしコードの解読だけでは記号のやりとりはうまくいかないことがある。コードは「コンテクスト」というものとセットになっている。コンテクストとは文脈や背景、場面のことである。※2

※2
渋沢たつみ氏の評論を見てみましょう。氏は芸術作品のコンテクストを表層から深層まで多分に読み込み、創造性豊かで機知に富んだ言葉を導き出します。このようにさまざまなレベルのコンテクストを拾い上げることで、新しい知見を得ることが可能となります。
一方で陰謀論的な思考も紐解いてみたいと思います。彼らは飛行機雲を地震雲であると読みとることがありますが、これは見えないものが見えている状態と言えるでしょう。換言すれば、非常に深層のコンテクストのみから解釈しているということです。
明確なコードが示されている場合はもちろんそれに依拠しなければならないし、コンテクストの読み取りも上手に行わなければと全く見当違いな解釈が生まれることになります。
記号の読み取りは正確に、解釈もほどほどに!

網膜音楽と網膜ボカロの例

 「網膜音楽」について考えてみよう。私たちは作品と網膜音楽のコードを使ってコミュニケーション、つまり対話をする。『ベートーヴェンの4コマ』は網膜音楽のコードでうまく記号化されている。あの画像が記号表現、『運命』という楽曲の冒頭の音声が記号内容である。コードを解読することで、「ジャジャジャジャーン」というメロディーを聴くことができる。
 しかし「ジャジャジャジャーン」とも「デデデデーン」とも初見では聴こえない人が発生することがある。これは網膜音楽のコードを知らないために起こる。ここで「網膜音楽は眼で聴く音楽なんですよ」というこのアートの背景、コンテクストを伝えることで、それが『運命』を表現していると理解できる可能性が高まる。

 網膜音楽と比べてコードの解読よりコンテクストの解釈の度合いが強い、「網膜ボカロ」も考えてみよう。「架空の楽曲のサムネイルなど」が記号表現、「架空の楽曲」が記号内容である。網膜ボカロの作品たちは、『ベートーヴェンの4コマ』ほど厳密なコードによって記号化されていないが、「ボカロ曲である」というコンテクストが与えられているため、その画像を「とあるボカロ曲」として解釈できる。ゆえにひとつの画像(記号表現)を観た人ひとりひとりの頭のなかで異なった音楽が生まれる可能性がある。
 複数の解釈が想定されるという状況は『ベートーヴェンの4コマ』では考えにくく、せいぜい「ジャジャジャジャーン」と「デデデデーン」くらいなものだろう。これは網膜音楽がコンテクストよりコードに依拠していて、解読の要素が強いからだ。

4コマのリアリティについて

 4コマのリアリティの話に戻ろう。この領域はもちろん、4コマの言語体系、つまり4コマのコードとコンテクストに支配されている。
 「4コマ」を表現するときを考えよう。私たちは「縦並びの4つのコマ」はもちろんのこと、「十」も「4」も「何かが4つある状態」も「4コマ」と呼ぶ。単に「4コマ」といっても、「4コマという概念」(記号内容)に対して作品の数だけ記号表現が存在することになる。※3

※3
念のため、「4コマ」なるものの記号表現と記号内容の対応を見ておきます。

4コマ……4コマ(表現)+4コマの概念(内容)

4コマ(記号表現)の部分はひとつひとつの作品と置き換えられます。「4コマの概念」という記号内容から多彩な表現が生まれるのです。よって記号表現の差異の体系が、記号の意味を生み出すことになります。

 私たちは慣れているために「4」や「十」を見て「4コマ」であると解読できるが、これらは本来「4コマ」とは呼ばれていなかったものであるから、実はコンテクストの解釈の要素を含んでいる。
 現代4コマの文脈を知らない人が「4」や「十」を見ても、「4コマ」であるとは読み取れないであろう。普段彼らが身を置いているリアリティで使われる日本語のコードを参照して、「4」はそのまま「4(という数字)」、「十」は「漢数字の十」や「+(プラス)」、「十字架」などであると読み取られることだろう。

「4コマの4コマ」について

 ようやく「4コマの4コマ」についての話だ。はじめのほうで、「4コマの4コマ」イメージの領域言語の領域(言語の領域のなかでも4コマのリアリティ)を繋ぐシステムである、と言った。まだまだ私もイメージを掴めてないのだが、「4コマの4コマ」は4コマのリアリティの言語体系、コードとコンテクストそのものかもしれない。
 以前「概念の4コマ」についてのnoteを書いたとき、その役割には、生成認識コンテクストの付与のみっつがあるとし、それぞれ製麺機メガネはんこにたとえて説明した。この記事では分かりやすくするため便宜上のかたちを与えたが、「4コマの4コマ」はもっと抽象的な、かたちのないものだと思う。4コマを4コマたらしめるためのシステム構造だ。たとえるなら骨組みのかたちを持たないのに、生物の姿を規定する遺伝子の塩基配列みたいなものである。

 網膜音楽でもみてきたように、作品との対話は少なからずコミュニケーションであるため、「概念の4コマ」が持つみっつの役割は「4コマの4コマ」というシステムで説明できる。

  1. 生成……生成は4コマのコードやコンテクストに依拠し、イメージの領域から言語の領域へと、「4コマという概念」(記号内容)と結びついた新たな記号表現を生み出すこと。

  2. 認識……認識は言語の領域にある対象を4コマのリアリティのなかに置き直し、4コマのコードやコンテクストに依拠して、これは「4コマという概念」(記号内容)と結びついた記号表現のひとつであると、イメージの領域に伝達すること。

  3. コンテクストの付与……コンテクストについては、「概念の4コマ」がそれをいずれかの対象に付与するという役割を持っているということになっていたが、「4コマの4コマ」ではシステム自体に組み込まれている。

 さて、私たちは4コマのリアリティに身を置き、「4コマの4コマ」というシステムを通して4コマを生成、認識しているという話をした。だからこそ4コマのさまざまな表現の差異を生み出すことができるし、「本当の日常系4コマ」のように、日常生活から4コマを見つけ出すこともできる。そしてブルーレットを4コマと言い張ることもできるわけである。

さいごに

 さいごに注意しないといけないことについて述べておきたい。「4コマの4コマ」というシステムを知らない人には、4コマのリアリティのなかで行われている物事を理解しにくい。
 私たちの活動の名称が「現代4コマ」であるから、それをコンテクストとして「4コマというものを使っていろいろやってる人たちなんだな」くらいの解釈はしてくれるかもしれない。しかしたとえば「コマ4表現」のようなハイコンテクストなものはとても難しい。私たちも「ここでは4も4コマということになっている」くらいのことしか言えない。

 記号表現と記号内容とのあいだに必然的なつながりはなく、「そういうことになっている」状態をさす「記号の恣意性」という言葉がある。恣意は「恣意的」の恣意だ。恣意的であるとは、勝手気ままであることとか必然性がないとかいった意味だ。※4

※4
原稿内では言及し忘れていますが、そもそもこの「4コマの4コマ」というシステムが成立したきっかけは、現四通信6月号で私が『2.25の4コマ』を批評したことにあります。『2.25の4コマ』ももちろん、私たちが構築した言語体系のなかで、「4コマという概念」(記号内容)と「9」(記号表現)が恣意的に結びついていると言えるでしょう。「4」も「十」も「ブルーレット」もです。

 4コマのリアリティのなかでは「4」という記号表現は「4コマという概念」(記号内容)に対応することになっている。こういったように私たちが勝手気ままに結びつけて、構築した4コマの言語体系のおもしろさを知ってもらうには、やはりSNSでの発信や展覧会を開催するなどといった活動に意義が出てくる。
 いわゆる内輪ノリというものは、ごく小さな共同体のリアリティのなかで用いられるコードによって、コミュニケーションをとっている状態だ。現代4コマは文化としてまだまだ拡大できると思うから、4コマの輪を広げていこうということで話を終える。


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