「わからない」から今日もどこか歩いてみる。【研究員の想い vol.2】
「将来は何がしたいの?」なんて何度も聞かないで。
実感もまだ整理できていないのに、他者に伝えられるために用意した洗練された文言だけが手元から離れていってしまうから。
「あなたらしさって何?」なんて簡単に言わないで。
今この瞬間も変わっていく自分を言葉の容れ物に当て込んだ瞬間、そこから出られなくなって息苦しくなるから。
「現実的に考えると」なんて枕詞をつけないで。
自分の中で勝手につくった「現実」の像を、勝手に社会の当たり前だと思い込んで飲み込まれそうになるから。
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昔は漠然と考えていた「じぶん」とか「将来」とか「社会との関係」が、高校生や大学生になった瞬間、急に明確な答えを求められるようになった。別に、ないわけではないから答えるけど。
ただ、他人に語るものとして私の口から出ていった、私を表す言葉を見た途端、
「あ、今、固定されちゃった」
って謎に失望する感覚だけは、どうしても好きになれなかった。
全部、今も考え中。
それじゃだめですか?
もちろん就活をするのかしないのかとかどこにいくのかとか、
どんなことを頑張ってみたいのかとか、
何を自分の「幸せ」としたいのかとか、
迷わず言葉にできたら、すごくかっこいいのかもしれないけど。
親に聞いてみても、友達に聞いてみても、先生に聞いてみても、
「そういう考え方もあるんだなあ」
と思うけど、自分の答えは簡単には姿を現してくれない。
わからない、けどとりあえず動いてみる、ちょっとだけ何かが見えてくる。
ずっとそれを繰り返す。
結局は、そうやって少しずつ歩いてみて、立ち止まって、考えることが全てなんじゃないかと思う。
それを、自分で足を動かして、自分の心と向き合って、自分の頭で考えるのが、尊いんだと思う。
不器用でも、まっすぐじゃなくても、そうやって生きてみたいんです。
“やったこと”が増え続ける自己紹介
高校生の頃から、何かに思い切って飛び込むのは比較的得意だった。
部活もサークルも今までやったことない新しいものに挑戦して弓道とかチアとか学生団体で活動したり、海外行く機会があったらボランティアでもフィールドワークでも学会でも行って自分の目で現地を体感するようにしたり、大学入って見つけた研究室は聞いたこともない学問だったけど面白そうだったので応募して、結局は院までお世話になっている。
ふりかえると学生団体でも研究室でも「いつも忙しそう」と(そんなに嬉しいものではないけど)定評があった私なので、Googleカレンダーはずっと埋まってたし3日連続で何もやることがない日が続くことは結構ありえなかった。
飛び込んでいった先に、最終到着点があると思ってた。
飛び込んでみること自体は、ハードルはあんまりなかった。新しい人や考え方に出会えるし、世界が広がるし、それが好きで楽しい。
当時はこれだけ色々やってみてるんだから、その中から一生を捧げる「これ」というものが見つかるのだとどこかで信じてた。
それさえあれば迷わずまっすぐ進んでいける。
その方が「他の道もあるかも」なんて余計なこと考えなくて楽なのに。
……どこだーーー!でてこーーい!!
って言って探したけどピンと来ず。
厳密に言うと、多分やりがいのあるものはたくさんあった、
心もたくさん動いて、いっぱい悩みもした。
だけど、人生を捧げられるかと言われたら、
決めきれない、みたいな感じだったんだと思う。
人生を決める選択だとか考え始めたら急に思い切りのよさが消滅。
重いよ、目的語を人生にするの。
何か見つかったかと思えば別のものが下に隠れてたり
新しいものが増えたり、減ったり
好きになったり、嫌いになったり
かと思えば予想しなかった方向から出会いが飛んできたり
今まで持っていたものを味わい直すこともある。
肝心の「やりたいこと」も「確固たる自分の軸」なんてものも、別に天啓みたいに降ってくるわけでもないんだとやっと理解できるようになった。
なんなら触れた世界の分だけ「じぶん」もどんどん複雑になっていったし、
大学一年生のときの方が「私はこれが強みです!」って元気な声で言えてたよ多分。
泥沼はハマってる最中は気づかない。
道の先が永遠に続いていることに気づいた私はどうしたかというと、まず焦った。
「何者にもなれない自分」が怖くなって、急に自分が空っぽに感じた。広くやるだけやってきただけで、思考も成長も重なってなくない?って。自分は何者にもなれないどうしようって先生に謎泣き言メッセージを送ったのは今でも覚えてる。ちょっと恥ずかしい。
次に感性が閉じていった。
自分のことを語っているはずなのに自分じゃない誰かを説明しているようだし、言葉との距離が離れていった。表面を取り繕うのだけはうまくなった。趣味やたわいもない人と過ごす時間が、生産性がないからといって純粋に楽しめなくなった。全部の行為に意味が必要になった。
そして、そんな自分が嫌いになっていった。
普通に楽しそうに生きている人も、楽しく会話してる人も、やりたいことにまっすぐな人も、見ていて「いいなあ」って思うことも増えた。ぐるぐる考えるしかない自分がひどくつまらなくて、余計自分に自信が持てなくなった。
人生の大きな目標とか決まったことがなくても、実は今まで進んできた道もそこでつくられた自分もいなくならないはずなんだけど。
一度負のスパイラルに入ると、そういう反対の側面がどうしても想像しにくくなったりする。
そうすると、見えていたはずの美しさも、
語れていたはずの想いも、
感じていたはずの胸の熱さも、
みんなどこかに隠れてしまう。
みんな等しく道の途中。
こうやって焦って泥沼にハマるときは大抵、
価値の基準とか、ペースとか、正しさというものが自分の外側にあるときだなと思う。
誰に言われたものでもないはずなのに。
いつのまにか自分が勝手に頭でつくりだしちゃった「社会」の側から、
「こうあらねばならない」というのが規定されていく。
人と違う道に進んだら「道をそれる」からやめておく、
ってそれは何の道からそれたんだろう。
しかも、私的には、
自分というものがさも発掘されるのを待っているかのように
「自分らしく生きる」「個性を尊重」「あなたにしかない力」
みたいな言葉に溢れているのもちょっとしんどい。
「はい、近年の潮流なので『他とは違う自分らしくあらねばならない』も項目に追加します〜」
みたいな。
「じぶん」というものが、もっと自然に扱われるのでいいんじゃないかと思うわけです。
そしてもう少し素直に肩肘張らず、付き合ってみてもいいんじゃないかな。
それって難しいことだけど。
そして今ちょっと息苦しくなったら、
ちょっと寄り道に出かけてもいいし
誰かとおしゃべりしてもいいし
自然に触れてみてもいい。
(Compathに来てもいいんですよ)
その選択をする自由があるし、そうやって感じて、考えた結果がしっかり「じぶん」になっていくから。
大丈夫。「じぶん」が変わっていくことも楽しいことだし、それも一つ進んでる。
そして考えるだけじゃなくて、わからないなりに自分の外側に歩いていったら、予期せず面白いものに出会えるかも。
そこで頑張りたいものが見つかればなりふりかまわず全力を注げばいいし、疲れたらまた立ち止まってもいい。
わからない、けどとりあえず動いてみる、ちょっとだけ何かが見えてくる。
ずっとそれを繰り返す。
明日はどんなものに出会えるかな。
あれ、ちょっと人生楽しみになってきた。
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ここまで書いてきたけれど、
考えすぎじゃない?っていう人もいれば
よくわかんないや...っていう人もいるかもしれない
私は全然違う考えっていう人もいるかも。
自分の胸の内を知られることは少しむず痒いけれど、
意外と他の人から見た自分の考えていることって内側に閉じていたりするから、
「他人の中ってこんなもんか」くらいに思ってもらえたら大丈夫。
自分もあんまりわかってないし。
なんなら文章見てもわかる通り苦戦してるし。
それでも、
ただ一つの答えがないものを「わからないよね!」って言い合って、
それでも考えることを諦めないで、たくさん話して、
進んでいった先で、「今もわからないけど、人生ってつらくて楽しいね」って笑っちゃえたら、
それって最高なことだなと思うのです。
文筆:むー
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