寒露:第51候・蟋蟀在戸(きりぎりすとにあり)
晩秋ともなると、夜にあれほど鳴いていた虫たちの声が減る。
蟋蟀戸にあり、
虫の数が減って、合唱だった歌が独唱となり、その歌が侘しくさせるのだろう。
秋も、彼らの生も残り僅か。
離れていくから名残惜しい。
恋情は燃えるが、それを振り払って、引き剥がして生きていく。
「あき」はそうやって「あきらめていく」とき。「飽きる」も語源だともされるが、いずれにしても距離が「空いて」いく。
自分の何かを「あけて」捨てていく。明らかになっていく。
「山粧う」というように樹々が「あかく」なる紅葉もそうだろう。スパッと余分を捨てる彼らの紅葉は、僕たちをも染め、照らしてくれる。
放下して素になっていく、色で言えば「白」。
「あかるい」を語根とする「あか」は、赤や朱(あけ)にもなるが、明るいゆえに白にも透明にもなる。「白秋」ともいい、五行の秋の色だ。
白は何にでも染まっていく色だが、この色は雪や日に晒され、風雪を耐え、寒さ暑さも超えて出る色。手間をかけなくてはできない聖なる色だ。白は再生の色。依り代、形代、苗代の「しろ」。そこに仮託されるもの星の数ほどあるだろう。
引き剥がしても、大事な想いは「重い」のだから、川の底に沈殿していく。
それが「重石」となっていくから、揺れても起き上がることができる。
鏡は磨かれ(研く、身欠く)てひときわ光る。
月のように。
そして蟋蟀たちは、また帰っていく。
小さな熾火が胸の奥に残る。
(写真は、映画”LUCKY”より 1枚目はペットショップに行って餌となる運命の蟋蟀(cricket)を全部買って来て多分庭に逃がす。たくさんの蟋蟀が網戸に這い上って鳴いているのをケットにくるまって眠れずに聞いている。死をまじかに)