昭和36年7月8日、豪雨災害の記憶
毎年、梅雨明けが近づくと、水害で何人もの犠牲者が出る。
災害で身内を亡くされた方の心情を思うと胸が痛む。
梅雨明けは、どこかの地域が犠牲にならないと終わらないのだろうか。
各地の災害が起きるたびに、いつまでも消えない子供の頃の記憶が蘇る。
昭和36年7月8日早朝。今までに聞いたこともない激しい雨の音に目が覚めた。私は小学4年生だった。
外に出て高台だった私の家から、下を通る道を見ると、それは道では無く濁流になっていた。自動車がゴロンゴロンと流れていく。私は再び床に戻り、布団をかぶり雨音の恐怖におののいていた。
突然大きな雷が落ちた様な音と地響きがした。と同時に母の狂気に満ちた声に慌てて外に飛び出した。
「さちこ〜さちこがー」と、狂った様に叫ぶ母。外に出て前を見ると、谷を通る道路を挟んだ向かい側の山が削り落ちて、バラバラと石や土の塊が落ちていた。
その光景は今でもハッキリと動画の様に思い出す。私の姉は19歳だった。崩れた山の下に建っていた美容室に見習いとして住み込みで働いていた。
弟の私には、そうは見えなかったが、友達からは「お前の姉ちゃんは綺麗か〜」と言われるほど美人だった様だ。
小遣いが無くなると、姉の働く美容室に行って姉に小遣いをねだった。
その姉が、この朝、土砂崩れで亡くなった。
狂った様に姉の名を呼び、下に降りていこうとする母を父や兄、近所の人が必死で止めていた。
少しして、土砂崩れに遭ったものの、偶然外に出ていて助かった美容室のオーナーが我が家まで上がってきた。
私たちが駆け寄ると、彼が西の方を指差して何かを叫んだ。「山が」。その方向を見ると、彼方の山が、その時の印象から言うと、スローモーションで真っ二つに割れて倒れ、水しぶきが上がった。
私の住んでいた村は山と山の間の盆地にできてる村だった。
その片一方の山が半分に割れて、その土砂がもう一方の山裾まで流れていった。後で山津波と言われた。
その山津波に、私が通っていた小学校が飲み込まれた。小学校のすぐそばに住んでいた、幼馴染の同級生の女の子の家も飲み込まれ、その子も亡くなった。
「まゆみ」ちゃんは可愛いくて、みんなの憧れでもあった。この朝の短い時間に、約40名の方が亡くなった。そのうちのほとんどが、この山津波の犠牲者だった。その後の記憶は曖昧になり、途中が飛んでしまっている。
私の家よりも高台に有る家が避難所になり、そちらに移動した。土砂崩れ現場で不明者の捜索が始まった。
私はなぜか、姉がどこかに行っていて、土砂崩れの時は、そこにいなかったに違いないと思いこむ様になっていた。
しかし、次々と遺体が発見された。避難所の前のポンプ式の井戸水で泥を洗い流される遺体は、まるでマネキン人形の様に私の目には写った。知ってる人ばかりだったが、私の感情は麻痺していた。
しばらくして、姉が発見された。
人間は哀しみの極限になると、感情が麻痺するのかも知れない、それは、そうならないと狂ってしまうからかも知れない。
夜は、姉を含む数体の遺体が横たわった隣で眠った。蛍が一匹飛んできて、遺体のところに入ったまま出てこなかった。その光景が忘れられない。
長い長い1日が終わった。
翌日、新聞記者が避難所にやってきた。その中に、今だに覚えている記者がいる。私たちにお菓子を持ってきてくれ、取材らしい取材はせずに、親しげに話しかけてくれた。対象的に、事務的に取材だけした記者もいた。
翌朝の新聞の水害の記事に、私の父の大きな写真が載った。見出しは「娘は息子は〜」だった。私も土砂に巻き込まれた様な記事になっていた。それを見た大阪に住む従兄弟が驚き、交通遮断されている中を隣の駅から歩いてやってきてくれた。
この時の体験と、その数年後の次兄に関する誤報道の件で、新聞の記事が、かなりいい加減だと言う思いは、未だに消えない。
やがて自衛隊もやってきた。歓迎のため港に行った。沖には初めて見る本物の軍艦が停泊し、前方が開く様になってる上陸用の舟で隊員が降りてきた。
その後の記憶は、途切れ途切れで曖昧になっている。
復興は進み、壊れた学校の代わりに、役場の2階が教室となり、授業が始まった。しばらくして、元の学校に体育館建てられ、その中を仕切って教室が作られた。曖昧な記憶の中で、妙に鮮明に残っているのは、正門に建てられた、足首から下だけ新しくなった二宮金次郎の像だ。
学校が山津波に飲まれた時、二宮金次郎さんが立ったまま逃げたという、まことしやかな噂が流れたのを思い出す。
この災害は七八災害と呼ばれ、佐賀県の小さな村で50人近くの人が犠牲になったが、その前に起きた隣の長崎県諫早水害のイメージが強くて、あまり世間の記憶には残っていない様だ、だから私は、忘れない様に毎年この記録を残していきたいと思っている。
もうすぐ姉の命日、7月8日だ。
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