【第465回】『殿、利息でござる!』(中村義洋/2016)
茶色い甕の中に、黄金色の小判が投げ入れるられるスロー・モーション。先代・浅野屋甚内は2階の引き戸を開け、夜風に触れながら思案に暮れる。その真下の道路を一台の荷車が通りかかる。表には父親、裏には妻と娘たちを小脇に隠しながら、音を立てないようにそっと歩く夜道の脱出計画は、浅野屋の「おいっ」の掛け声で早くも暗礁に乗り上げる。父親は震え上がり、「お赦し下さい」と命乞いするが、浅野屋は「お主には金を貸していたな」と無表情で応える。引き戸を閉め、長屋の1階に駆け下りる足音。この後、家族の夜逃げ計画がどうなったのかは定かではない。あれから7年、現在では宮城県黒川郡大和町に当たる吉岡宿の住人たち。市の財政不安のため、百姓や町人問わず、重税を課す仙台藩。伝馬役にかかる費用を住人全員の頭数で割るという特殊な課税制度のせいで、夜逃げが相次ぎ、その度に税金が重くなるという悪循環にさらされている。この危機に対し、穀田屋十三郎(阿部サダヲ)はお上に陳情書を願い出ようとするが、その暴挙を茶師である菅原家篤平治(瑛太)が制する。馴染みの煮売屋で女将とき(竹内結子)の料理を味わいながら、酒に呑まれた篤平治は、十三郎に対し、酔っ払った勢いである相談を持ちかける。
かくして現在の市場価値にして、およそ3億円を集めるというとんでもない計画は幕を開ける。全編を通して濱田岳のナレーションは朴訥としていてなかなか素敵だが、いかんせん説明が多い。冒頭こそ、この情報量と最低限の時代設定の煩雑さに演出そのものが戸惑っているのが見受けられるが、篤平治と十三郎の集金計画が幕を開けると、途端にテンポよく地に足のついた丁寧な筋の運びに魅了される。中村義洋監督の時系列に準拠した折り目正しい回想スタイル、並列に並んだ群像劇の配置と切り取り方の妙は、彼が数々のミステリー映画で培ってきた持ち味だが、そのスタイルが時代劇でも有効であることをしっかりと証明している。狐と狸の化かし合いならぬ、金持ちと貧乏人の心理戦、それぞれの欲とプライドにまみれた駆け引きが始まり、人間の本性が露わになる。十三郎と弟で二代目・浅野甚内(妻夫木聡)との兄弟喧嘩、初代甚内から息子・音右衛門(重岡大毅)に及ぶ浅野家三代に渡る確執、篤平治の恋女房なつの気の強いかかぁ天下、十三郎と女将ときの秘めたるロマンスなど、人物の内面をしっかりと描きながら、行われる集金ゲームの軽快な運びは中村義洋監督ならではだろう。中でも金にがめつい両替屋の遠藤寿内(西村雅彦)の天性の喜劇役者としての立ち回りが中盤から非常に効いている。特に中村組の常連俳優である龍泉院(上田耕一)と寿内との食えない男同士の化かし合いがあまりにも印象に残る。
中村監督の上手さはそれだけに留まらない。今で云うところの一丁目、二丁目、三丁目に類する上町・中町・下町との三つ巴の門下の人間関係を、細かく丹念に追いながら、伝馬不足の百姓たちが立ち回る姿を、メインキャスト以上の比重で描くのである。予告編ではコミカルな映画を想像していたが、主人公である阿部サダヲの笑いどころのないシリアスな演技には驚いた。長男であるにもかかわらず、理由もないまま家を追われたことに対し、浅野屋一家への不信感を抱えながら、どこか頼りなかった自分を鼓舞し、皆と一致団結してこの町のために励む。欲を言えば、あの夜道の光量がもう少しあれば、その的確な表情を据えられていたはずだが、弟に真実を知らされる場面の瞳の表情と涙が何よりも雄弁に物語る。時代劇というジャンルでありながら、剣術シーンは一度もなく、もっぱら真剣な問答で相対する男たちの気迫。ある意味ステレオタイプな悪奉行を演じた萱場杢(松田龍太)の冷静な佇まいは、同監督の『アヒルと鴨のコインロッカー』や『まほろ駅前多田便利軒』シリーズを経て、一回りも二回りも成長した瑛太と松田龍太の重厚感や充実感さえ感じる。「つつしみの掟」にも現されていた「無私」の精神。喧嘩、口論は慎み、偉ぶらず謙虚に、いつも末席に座り、子々孫々に至るまでこれを慎むべしという連判の掟は、現代の日本人が忘れてしまった大事なものを思い起こさせる。数々のミスリードに彩られた伏線を1本の線に束ねる中村監督の丁寧な技量、役者陣の演技に心打たれる現代の寓話たる時代劇である。