【第569回】『目撃』(クリント・イーストウッド/1997)

 ワシントンD.Cにある美術館に飾られた宗教画のエクストリーム・クローズ・アップ・ショット。右側には手を横に差し出す男の姿が描かれ、左側にはキリストに似た人物が磔にされている。この作者不詳の絵画に始まり、ショットは幼子を背負う母親の絵、頬杖をつく孤独な男の絵、赤ん坊を胸に抱いた母親の絵に切り替わっていく。一連の絵を音も立てずに模写する熱心な生徒たちの姿。ルーサー・ホイットニー(クリント・イーストウッド)は絵と正対するところに座りながら、被写体の目を一生懸命に描こうとしている。傍に立つ大学生くらいの女性がルーサーに向かって「あきらめないで」と笑顔で話しかけるが、それに対し彼は「シブトイさ」と笑顔で返す。アメフトのビデオ予約を馴染みのBARの店主に頼み、家路に着いた彼には家族がいない。電気も付けず、誰もいないテーブルに座り、ワインとチーズでささやかな晩酌をしながら、ルーサーは今日書き進めた絵の進捗状況をもう一度確認する。スケッチブックの数枚後ろの、どこかの豪邸の正確なスケッチをしげしげと眺めながら、ルーサーは一呼吸置く。屋敷のスケッチから実際の屋敷へのオーバー・ラップの後、ルーサーは誰もいない豪邸へと侵入する。一家が休暇旅行中の隙を狙い、大統領の支援者でもある政界の大物ウォルター・サリヴァンの邸宅に忍び込んだルーサーだが、立ち去る直前に帰宅した妻クリスティ・サリヴァン(メロラ・ハーディン)と、現役大統領であるアラン・リッチモンド(ジーン・ハックマン)とのハレンチな乱痴気騒ぎの現場に出くわしてしまう。

70年代後半〜80年代、イーストウッドの愛人だったソンドラ・ロックが何度も卑劣な男たちによって押し倒され、裸にされたように、ここでもウォルター・サリヴァンの年の離れた妻であるメロラ・ハーディンは、急に目の色を変えたジーン・ハックマンの暴力によって蹂躙される。イーストウッドはその様子をクローゼットからただじっと見つめているのだが、この1シーンのサスペンスフルな一部始終が思いの外、長く引き延ばされている印象を受ける。千鳥足で明かりをつけた2人は、ブランデーを飲み直す。大統領は鏡を見て、曲がったネクタイを直しながら、クリスティはムードたっぷりのJAZZをかけながら、大統領をセクシーに誘惑する。男の理性のタガが外れるのはその後であり、サディスティックなプレイを強要する大統領に対し、非力な女はペーパーナイフで馬乗りになって男を押さえつける。イーストウッドお得意の気の強い女の凶行だが、シークレット・サービスの銃弾が彼女の胸を射抜く。93年にウォルフガング・ペーターゼンの『ザ・シークレット・サービス』に出演した時とは、まさに真逆に様変わりしている。ジョン・F・ケネディ大統領を救えなかった負い目を感じながら、高齢の身体で無理矢理に大統領を守ろうとした『ザ・シークレット・サービス』の主人公フランク・ホリガンに対し、今作の主人公であるルーサー・ホイットニーは、大統領の公の姿と裏の顔の落差を思い知らされる。アラン・リッチモンド大統領だけに留まらず、今作で彼の名誉を守ろうと保身に走るシークレット・サービスのビル・バートン(スコット・グレン)もティム・コリン(デニス・ヘイスバート)も、大統領補佐官のグロリア・ラッセル(ジュディ・デイヴィス)も、イーストウッドが心底嫌う官僚機構の醜い行使者となる。

4年前の『ザ・シークレット・サービス』では、明らかに息が上がりながらあれだけ走ったイーストウッドも、今作での逃走シーンは導入部分に僅かに見られるだけで、あとはひたすらアルフレッド・ヒッチコック的なサスペンスに観客を招き入れる。ヒッチコックが「じらし」とも呼んだ、主人公が窮地に陥る様子を観客に一通り見せる焦らしのテクニックを最大限に駆使しながら、西部劇の名無しから『ダーティ・ハリー』シリーズのハリー・キャラハンへと姿を変えたダーティ・ヒーローは、一発の銃弾も浴びせることがないまま、大統領を心理的に追い詰め、死の鉄槌を浴びせることになる。ここでもルーサーの妻は彼よりも早く天国に旅立っている。『許されざる者』でようやく描いた父親像は父と娘の憎しみに変わり、妻娘に苦労をかけて来た朝鮮戦争の勲章を持った帰還兵は、あの頃の誇りを胸に、大統領の陰謀から本気で娘ケイト・ホイットニー(ローラ・リニー)を守ろうとする。『ルーキー』においてイーストウッドとチャーリー・シーンを急接近させたポートレイトが今作では娘の気持ちを氷解させる契機となる。大統領の元に集う3悪人(ジュディ・デイヴィス、スコット・グレン、デニス・ヘイスバート)のレイヤーの違いと各人の末路を丁寧に描写しながら、『許されざる者』や『マディソン郡の橋』のクライマックスで提示された大雨の描写は、ウォルター・サリヴァンの涙雨となる。イーストウッド生涯のテーマである「法と正義の行使の不一致」は大雨の中、丁寧に反復され、ルーサーはウォルターに私刑を促すのである。おぞましい描写をあえて避け、TVモニターで苦み走った表情を見せるイーストウッドの姿。思えば処女作『恐怖のメロディ』においても、最初のショットは恋人が書いた肖像画の目だったはずだ。今作の導入部分の磔にされたキリストの絵も、全体像ではなく大事なのは目だったはずであり、その目は表層を見る目ではなく、本質を射抜く。

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