【第455回】『64-ロクヨン- 前編』(瀬々敬久/2016)

 工場から聞こえてくる製造ラインのけたたましい音。活気溢れる働き手たち。漬物工場では朝早くから製造ラインがフル稼働している。漬物工場の主である雨宮(永瀬正敏)も作業に参加する中、少女の「行ってきます」の掛け声が工場中に元気に響く。手には繭玉の枝、赤いバッグを肩にかけ、いつものような笑顔で出掛ける娘の姿に、父親は「あまり遅くなるなよ」と声をかける。それが親子にとって最後の会話となるとは夢にも思わない。叩きつけるような雨の降る夜に変わり、刑事の松浦(三浦友和)と三上義信(佐藤浩市)が物々しい表情で雨宮漬物工場に顔を出す。コタツとテーブルの上に置かれた黒電話、その裏に待ち構える自宅捜査班の物々しい顔ぶれ。逆探知してやろうと、犯人の動きを虎視眈々と伺う。少女誘拐事件、サトウと名乗る犯人は身代金2000万円を指定の場所へ持ってくるように要求する。かくして身代金誘拐の犯人と警察との心理戦は幕を開ける。2000万円の札束が入ったサムソナイトの一番大きいスーツケースを小脇に抱えながら、父親の雨宮が幾つもの場所を転々とさせられる描写には、伊藤俊也の『誘拐報道』を真っ先に思い出す。一向に埒のあかない電話口でのやりとりに消耗する父親、それに翻弄される警察たち、やがて橋の上から海に落とすように命令されたスーツケースは、警察を出し抜いて、もぬけの殻となる。だだっ広いスクラップ工場、横に鉄塔を臨む殺風景な場所、薄汚れた深緑の車の後方から少女の遺体は発見される。茫然自失となった三上はカーラジオのチューナーを合わせると、昭和天皇崩御の報せ。この事件はマスコミの衆目を浴びるニュースにも関わらず、すぐに人々の記憶から忘れ去られる。事件は通称「ロクヨン」と呼ばれている。

今作はミステリー原作の映画化にありがちな回想形式を最低限に留め、三上がかつてのロクヨン関係者を熱心に訪ね歩く姿を実に丁寧な筆致で描く。幸田一樹(吉岡秀隆)というかつての部下で自宅班の重要人物だった男が、幽霊のように立ち現れては消える人物として存在感を放つ。雨宮との10数年ぶりの再会の場面、やつれ荒んだ被害者遺族との再会が胸を締め付ける。14年の歳月を経てもほとんど変わらない佐藤浩市を前にして、永瀬正敏のあまりにも荒んだ変貌ぶりにそれはないだろうと思わなくもないが 笑、被害者遺族は14年経とうが50年経とうが、その傷は永遠に癒えることはない。玄関先に置かれた黄色い傘、そして遺影の脇に置かれたもう一つの遺影が時間の経過の残酷さを物語る。今更どのツラを下げてやって来るのか?初動捜査に失敗した警察への不信感からか遺族は心を閉ざしているが、娘の喪失という辛い境遇を持つ者同士が、微かに心を通わせる2度目の訪問の描写が息を呑むほど素晴らしい。遺影に手をかざす三上の心に幾つかの場面がフラッシュバックする。クライマックスの涙のない熱演に対し、ここで主人公は臆面もなく、被害者遺族の前で泣いてみせる。あまりの感情の洪水を制御出来なくなった男はそそくさと立ち去るが、雨宮との雪解けとなるのである。淡々とした事実の情報量が極めて多い複雑な物語を、監督である瀬々敬久は極めてロジックに冷静に伝えようとしている。原作者の思い入れを汲みした広報室と記者クラブとの一触即発の戦争のようなやり取りの過剰さに象徴されるように、一歩間違えばお寒い冗長なやりとりを、破綻も恐れず丁寧に描く姿には非常に好感が持てる。その反面、警察内部の力関係はあまりにも煩雑でわかりにくい。県警本部長の辻内(椎名桔平)がトップにいるのはわかるのだが、警務部長・赤間と刑事部長の荒木田(奥田瑛二)との力関係など、警察に関係ない人間にはあまりにも漠然としすぎている。もっと言えば、二渡(仲村トオル)と三上のやりとり、荒木田と松岡、そして御倉(小沢征悦)との関係性はもう少し掘り下げるべきではないか?

前編の全体のバランスで言えば、「ロクヨン」事件の捜査と、匿名か実名かの記者クラブと広報室の一触即発のやりとりとがほぼ同じ力量で描かれるため、どちらに舵を切るかによってまったく別の印象になり兼ねないが、ここでも瀬々敬久の判断はバランスの良い範囲に収まる。当初は過剰に見えた記者クラブのインディーズ映画の俳優陣(宇野祥平、菜葉菜、川瀬陽太、川屋せっちん)たちと佐藤浩市とのやりとりも、クライマックスの息詰まるような心理戦から逆算すれば、実に腑に落ちる。鶴田真由、筒井道隆、烏丸せつこなど懐かしの俳優陣を惜しげも無く起用しながら、要所要所にバランス良く配置した瀬々敬久の手腕には拍手を送りたい。クライマックスの長回しでの9分に及ぶ三上の大演説は、佐藤浩市のキャリア最高峰と言っても過言ではない。それと共に、三上が広報室婦警の美雲(榮倉奈々)に見せた精一杯の優しさ、今井正の『ここに泉あり』の岸恵子の看板をしげしげと眺めた男に詰め寄る美雲の気概には、娘の姿がダブるのは云うまでもない。日吉(窪田正孝)へのたった一文だけの手紙、幸田メモのその後、秋川(瑛太)の涙など物語の成立に不可避な伏線はしっかりと張り巡らせながら、後編への期待を一手に引き受ける三上の表情に持っていく瀬々敬久の手腕は後編に期待を抱かせる。しかし永瀬正敏の殊勝な被害者っぷりに、大河原孝夫の『誘拐』を思い出さずにおれた人などいるのだろうか?

#瀬々敬久  #佐藤浩市 #永瀬正敏 #瑛太 #榮倉奈々  #三浦友和 #吉岡秀隆 #64 #ロクヨン

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?