この人生を生きる意味

人生の道のりは長い。時には道が見えなくなったり、この道が正しいのかどうか疑問に思うこともある。そんな時の対処法として考えてみたことを書いてみたいと思う。

「生きる意味って何?」と問いかけるその心

まずは言葉が何を含んでいるのか考えてみる。

「生きる」の意味

「生きる」とは。私のイメージからすると、能動的な言葉だ。「生きている」ことと「生きる」ことは違うと思う。「生きている」というのは状態、「生きる」というのは意志を含んだ未来へ向かう宣言、のように聞こえる;
 ・物質的な「生」の積み重ね
 ・精神的な「生」の方向
人は皆いつか死ぬ。死に向かって「生きている」のではあるが、死に向かって「生きる」のではない。物質的には、もちろん不可逆・不可避的に死が訪れるものであるが、精神的には、死に向かわない限り、あるいはたとえ一度そちらに向かったとしても方向転換することができる。そういう意味では「生きる意味」を問いかけることは、「生きる」ことを渇望する精神が後ろを振り返っている、違う道を探していることである。つまり、「生きたい」と強く願っているのである。このことは心に留めてほしい

「生きる意味」の意味

前項では少し風呂敷を広げすぎた。別に死にたいと思って「生きる意味は〜」と言ってる人はいないだろう。「生きる意味」という言葉は3通りに解釈できると思う。すなわち、「理由」、「目的」、そして「価値」である。どれを含んでいるかによって見方が変わってくるだろう。

生きる理由という見方

この場合は、なぜ生きなければならないのか、という問いに還元されそうである。とはいえ、この意味で尋ねる人はほとんどいないだろう(極めて哲学的な問いかけで、個人的にはそういう議論も好きなので、ついついこの目線で語ってしまうことも多いのは反省すべきところである)。私が持ち得る答えとしては、理由などなく今は死にたくないので生きる、である。仏教に四苦八苦と言う言葉があるが、四苦とは、生老病死、であり、お釈迦様ですら生きることは苦であると言っているので、生まれたことがすでに苦難である。そもそも生まれる前にあなたの意志はなく、つまりあなたにはどうすることもできない事象である。思い悩んでもしょうがない。とはいえまだ死にたくはない。「生きている」ことに感謝するのだ。

生きる目的という見方

この場合は、自分は何のために生きるのか、という問いに還元されそうである。
生きる理由が哲学的な見方だったのに対して、自分自身がどのように生きるのか、という考え方だ。
基本的には自分目線である。
あれがしたいこれがしたい、というようなことである。
もちろん人によっては他人のために何かをしたい、ということもある。ただし、それは自分がしたいからしているのであって見返りを求める心はないように思う。
無償の愛といったところである。
そんな高尚のことを求める必要はないが、そういう生き方もあるっていうのは知っていていいと思う。
私の感覚では、よく自己実現と言われるようなものであるという認識だ。

生きる価値という見方

この場合は、自分が生きることは人に何をもたらすのか、という問いに還元されそうである。
これは人の役に立っている感覚というか、承認欲求のようなものと思う。
社会的な生物であるヒトが共同体を作る上で必要な考え方なんだろう。共同体の中での役割を認識してその役目を果たすということだ。
今はインターネットの力で人の繋がりが膨大になり、また社会システムが複雑になりすぎているので、一見して役に立っているのかどうか分かりにくい。このため、悩む人も増えてくるだろう。
別記事でも書いたが、あなたが生産活動をしているなら必ず誰かの役に立っている。
だから安心して欲しい。
直接的な承認は見えにくくなってしまっているので、視野を広げて見て欲しい。

生きる意味を考えること

上記のように生きる意味というのは色んな意味を含む。
そこに優劣はなく、どれも必要なことだ。
自分のために生きるのも、他人のために生きるのもそこはあなたの選択次第だ。
成長していくと考え方が変わることだってある。
今の社会は、こうあるべし、と何かを強要してくることも多い。おそらく「生きる価値」を求めるのが重要で、「生きる目的」を追求するのはワガママだと言われるだろう。
そんなことはない。
その時々で変えていけばいいし、成長したら自然と価値について考えるようになる。
そして焦って答えを出す必要もない。
そもそも答えなどない。
心のままに生きよう。


蛇足

以降は思いつきでだらだら書いたので読む必要はない。

生きるということをいろんな視点から眺めてみよう。

まずは、生物としての人間(ヒト)という視点で考えてみよう。生物の生きる目的は、自己保存と自己拡大である。自己を保存するために外部から原料を取り入れ、組織化し、老廃物を排出する。そして自己を拡大するために生殖を行い、成熟するまで子供を育てる。ヒトの生きる意味はこれだけである。これは世界の意志であり、数十億年に渡って続けられてきた営みである。分解してしまえばただの化学反応であり、条件が満たされる限り永遠に続く連鎖反応である。この中において、ヒトは世界の一部であり、逆に世界はヒトの全部である。つまりヒトは世界と調和しているのである。

しかし、なんの偶然かヒトに精神が芽生えて、ヒトから人間へと変わった。人間は脳の中にバーチャルの世界を構築することができるようになった。つまり自我を持った。明確に世界と私を区別できるようになったのである。こうなると話が厄介になる。2つの世界が現れるからだ。異なる二つの世界が調和しないのは明らかだ。なんとかバランスを取らなければならない。二つの世界が生まれたことで、善いもの、悪いものが区別されることになる。私にとっての善悪あるいは快不快と言った方が適切かもしれない。しかし困ったことに圧倒的に大きな世界に対して、私はあまりにちっぽけだ。必然的に狭いレンズを通して世界と対話することになる。このレンズを認識と呼ぶ。あらゆる経験は認識を変化させる。この段階において、生きる意味とは、自我の世界を作ることに当たるだろう。つまり、自分の中に外の世界と調和した(と認識する)世界を構築すること。この間は外の世界から情報を取り続けているので、生きる意味を考える必要すらないであろう。生きる意味はそこら中に満ち溢れているのだから。もちろんこの瞬間にもヒトとしての生きる意味を忘れているわけではないので、自己保存の働きは続いている。このヒトと人間の間に矛盾が生じた時にはさらに難しい状況が出てきそうであるが、それはまた別の話である。

さて、さらに時を進めてみよう。もうレンズはできあがったと思える。そうすると今度は、自我からこのレンズを通して世界を見るようになる。どうなるか。またしても世界は二つに分かれる。調和した世界と調和していない世界である。当然調和した世界に居続けたいと思うだろう。ここにおいて生きる意味とは、自分にとって快いもので囲まれていたい、ということになろう。そんな世界にいる時、誰が生きる意味を考えるだろうか?

しかし世界は時に残酷だ。否応なしに調和していない世界に引き摺り込んでくることがある。あるいは、レンズを無理やり変形させることもあるだろう。さらには世界が変わっていなくてもレンズが劣化してピントが合わなくなることもあるかもしれない。さて、こうなってくると、自我と外の世界が矛盾することになる。耐えがたい苦痛である。その世界にいる限り生きる意味は見つからないだろう。というわけで、「生きる意味」を探し始めるわけである。どうすれば見つかるだろうか?矛盾を解消すれば良いのではないか。どのように解消するか?
  ・外の世界を変える
  ・自我を変える
  ・ヒトに戻る

体感的に多くの人が取る手段は、外の世界を変える、つまり調和した世界を探すことであろう。転職する、恋人を作る、より強い刺激を求める、楽しいことを探す。などなど。デメリットは、調和するかどうかが外の世界に依存していることである。また、場合によっては関係を切ると言ったことも必要であるので、難しい選択となることがある。

次に、自我を変える、という手段。固まってしまったレンズ(認識・価値観)を柔らかくすることである。これにより同じ世界が違って見えてくる。しかしこれは少し手間がかかる。どこが固まっているのかを探して、認識をアップグレードしないといけない。これには自我と対話する必要がある。そして外の世界を新たな認識で見つめ直す必要がある。とはいえ誰しもがやっていることであり、平たくいえば大人になる、ということである。小さなステップであれば無意識的にやってしまうだろうが、大きなステップとなると意識的にやらないといけないので、大きなモチベーションが必要になる。

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