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<学び>大宇宙の探求者(4)


わたしは質問が下手だ。

学校の授業でも、セミナーとかワークショップでも、「なにか質問ありますか」と訊かれたときに、サッと言葉が出てきた試しがない。

それはたぶん、以前のわたしが自意識過剰ぎみで「こんなこと訊いたら、バカみたいかな」っていう照れだったりもしたんだろうけど、時を経てそれがかなり薄まった(当社比)今でも、相変わらず、下手だ。

そんなときに読んだのがこの文章だった。

詳しくはリンク先で読んでいただくとして、要は「『経験』が、うまく質問をするとっかかりを作る」というところが、わたしにひっかかった。

『経験』や『体験』がなく、問題点が洗い出されていなかったり、言語化されていない状態では「何がわからないのかが、わからない」ということだから、そんな人に質問をされた方も「何を訊かれているのか、わからない」になってしまう。

つまり、とある問題に対して、それを解くことができなかったとしても、まずは解くという『体験』をし、その結果を分析してみたから「ここがわからない」と把握でき、それを質問できる。

もしかしたら、わたしはずっと、このパターンなのかもしれない。

「ひとまず自分でやってみたい派」とでもいうか、料理のレシピも、気になったらとりあえずやってみる。

成功したら、自分が工夫した部分を記しておく。
「イマイチだな」と思ったら、その部分を検証し、調べたり本を読んだり、有識者の友人に質問して教えを受け、改善していく事がほとんどだ。

これまで、わたしの「学ぶ」ということに対するイメージは「分厚い本をたくさん読んでノートを取って繰り返して覚える」
なので「学ぶ」となったらガッツリと覚悟して、たくさんの本を読んでめっちゃ暗記しなくちゃいけないんだな……みたいな、ちょっと悲壮な姿勢だった。

そのイメージをひっくり返してくれたのは、支配人だ。

料理は、同じ料理を同じ手順と材料で作っても、いつも同じものになるとは限らない。
季節の違い、気温の違い、湿度の違い、材料の水分量の違い…その原因はたくさんある。

初女さんが季節やお米の水分量に左右されず、常に同じかたさのごはんを炊いておむすびをむすんだように、それらの「原因」を微調整して、常に同じクオリティを保持するのが、調理における高い技術なのだろうと思う。

あの水野仁輔さん「カレーって、仲間で隣り合いながら全く同じ材料と条件で作っても、同じカレーにはならないんですよ」と話してくださったことがある。
その「違い」は、それぞれの作り手の個性となる部分だろう。

わたしもまた、自分の個性や自分ならではの完成度を求めて、日々の調理に取り組んでいる。

ある日、それまで今ひとつうまくいかなかったメニューが、ものすごく美味しく作れたことがあった。
そして、そのとき何をやったか、材料はどうだったか、分量はどのくらいか…などなどを忘れないよう、夢中でメモした。

その様子を見た支配人は「そうやって学ぶことで、こみちゃんのごはんが進化していくんだね」と言った。

ん???

わたしは今、分厚い本を読んでノートをガリガリ取っていたわけじゃなく、いつものようにごはんを作っただけ。

なのに。

それって、学んでた、のか。
これって、「学び」だった、のか。

わたしに「勉強に対するイメージ」は、このとき、ひっくり返った。

誰かが目の前で技術を見せてくれたりするのを観察したり、貴重な『体験』をシェアしてもらうことを「勉強になります」というの、あれはこういうことなのか…と思った。

実際の『体験』が伴うことで得られるもの。
それもまた「学び」なのか、と。

そして、大好きな作家さんである、五十嵐大介さんの「ペトラ・ゲニタリクス(『魔女<2>』に収録)」の中にある台詞を思い出した。

宇宙の大いなる力を継ぐ存在「魔女」であるミラは、主人公の少女・アリシアを後継として引き取る。

山奥で自給自足の生活をするかの女たちには、日々、農業に家事にと仕事があるが、ある日、言いつけられた仕事を放って本を読みふけっていたアリシアをミラは叱咤し、アリシアに本を読むことをやめさせる。

なぜなのかと問うアリシアへのミラの回答は「あんたには経験が足りないからよ」

そして「"体験"と"言葉"は同じ量ずつないと、心のバランスがとれないのよ」と続ける。

確かに、ミラの言う通りかもしれない。

レシピは読んだだけでは身につかない。
作ってみなければ、できあがったものが好みかどうかすらもわからない。

作ってみたという『体験』がないと「そのレシピについて質問してください」と言われても、できない。

樋口直哉さんは「キッチンは実験場だ」とおっしゃっていたけれども、そういうことなんだろう。

わたしが学びたいのは「料理」。

だから、いつも実験する心構えでキッチンに立ち、新しい『体験』をする必要があるのだ。
それを深めるために本で細部を確認したり、『体験』の前後に本を読み、技術の成り立ちを科学的な面から学んだりする。

そうやって整理して考えてみると、この流れは、かなり楽しい。

わたしはいろんなことを書いておいたり、書いて覚えて考えるほうだから、常に「レシピや献立を考えるための雑記帳」と「学んだことを清書しておくノート」、そして「日々の記録用の手帳」を使っている。

電子版のおかげで、今年はいつになく本も読んでいる(漫画も読んでいるが)。最近もまた、良著を数冊、仕入れた。

「分厚い本を読んでガリガリノートを取って覚える」ことも必要だが、「『体験』を記す」ことこそが、わたしにとって大切なことだったのだ、と気がついた。

相変わらず、質問はちょっと苦手だ。
けど、自分に合った方法で学んでいこう。

<補足>
「ペトラ・ゲニタリクス」については、こちら↓の記事も面白かったです。


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