資本論(第一部)を思い切って要約してみた③

さて、結局3回に渡ってしまった資本論(第一部)要約の試みも今回が最終回である。

ところでこうして要約を書いたのは、より多くの人に資本論の内容に触れてほしいからである。しかし単なる教養として「ふーん」で済ませられてしまうのは、本意ではない。肯定でも否定でもよいが、資本論からわれわれの日々の生活を考えるタネを掴み取ってほしいのである。

むろんそのタネは人によってさまざまだが、私が学びとってほしいことは例えば、我々の生きづらさは我々の気持ちの問題ではなく、社会構造の側に原因があるということである。

資本論が書かれる前、マルクスはそのプロトタイプとして『経済学批判』という本を出した。その序言でマルクスは次のように述べている。

「人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。」

いわゆる唯物史観の定式(の一部)といわれるものである。気持ちだけどうこうしようとしても仕方がない。なぜならその気持ちというのは社会のあり方に規定されているのであるから(しかし人は逆に人の気持ちが社会を変えていくと考えがちである)。この考え方にのっとって書かれ、同時にこの考え方の証明となっているのが、ほかならぬ資本論なのである。

以下の要約もそのような前提で読んでみると味わい深いものがあるだろう。それではいってみよう!

再生産と資本・労働者関係の再生産

ここまでみてきたように、資本家は労働力と生産手段を買い入れ、労働を行わせることで価値を増やす。しかしもちろんのこと、このプロセスは1回で終了するものではない。生産の結果生じた価値を元手に、もう1回同じサイクルを行うのがふつうである。そのサイクルが終わった後も、また新たなサイクルが始まる。このように資本は絶えず再生産をおこなうのである。

仮に100万円が元手で、それが20万円の剰余価値を生み120万円になったとしよう。このうち増えた20万円は資本家が個人的に消費してしまって、再生産には同じ100万円しか投入しないとする。これを単純再生産という。単純再生産を繰り返す限り、資本は大きくなってはいかない。とはいえ単純再生産だとしても、次のことがいえる。

まず、20万円を資本家が個人的に消費するということは、20万円×5回=100万円だから、5回サイクルを繰り返せば元手100万円と同じ額になるということである。ここで、仮に資本家が一切の生産を行わず元手100万円をただ消費するだけだったなら、当然手元には何も残らない。つまり仮に元手と同額だったとしても、消費を経てもなおそれがそのまま残っているのだとすれば、それは剰余価値を搾取した結果であって、元手とは出自が異なるということである。

また、再生産をおこなうということは労働力をもう一度買うということである。一回だけ労働力を買っただけならたまたまかもしれないが、再生産を繰り返すと資本が労働者から労働を買うことは常態化していく。これはつまり、労働力を買って剰余価値を搾取する資本と、労働力を売って日銭を稼ぐ労働者という関係を固定化する契機となる。つまり資本の再生産は剰余価値だけでなく資本・労働者の関係をも再生産しているのである。

資本の蓄積

以上のことが、単純再生産でなく拡大再生産ともなるとますます苛烈になる。単純再生産においては、剰余価値はそのまま消費に回していたわけだが、拡大再生産とはその剰余価値をも生産に回す再生産のあり方である。例えば、元手100万円が120万円になったあと、その120万円を再生産に回し、さらに144万円に増やすという場合である。このように、価値増殖によって生じた剰余価値をもういちど価値増殖させることを資本の蓄積という。わかりやすくいえば、剰余価値を雪だるま式に価値増殖させていけば、お金がどんどん増えていくということである。

単純再生産においても、再生産を重ねた後の資本は搾取の結果生じたものだということができた。拡大再生産の場合、剰余価値をも再生産に注ぎ込んでいるのだから、その結果生じる資本が搾取によるものだということはいっそう明らかである。これは皮肉なことである。なぜなら、労働者の労働の結果増殖した資本が、さらに労働者を働かせる手段として機能しているからである。いわば労働者は自分で自分の首を絞めているのだが、とはいえ労働者も日銭を稼がないといけないので、この悪循環に歯止めをかけることができない。

加えて、資本がどんどん大きくなっていくということは、資本・労働者関係は資本がどんどん強くなっていくという形で再生産されているということである。これは一人の労働者のことを考えても深刻な問題だが、人類全体のことを考えたとき、資本がますます多くの人々を労働者として巻き込んでいく(前回の言葉を使えば「包摂」していく)ということでもある。歴史的には、女性や子どもなど、それまで労働者として働いていなかった層が労働せざるをえなくなっていった経緯がある。(近年の定年延長の流れというのも、これと同じことかもしれない。)

産業予備軍の創出

ところで個々の資本をみたときには、すべての資本がやりたい放題をできているわけではない。なぜなら資本は日々競争を繰り広げており、小資本は競争に敗れ没落していくからである。大資本がなぜ競争に勝てるかといえば、大きいがゆえにさまざまな機械をもつなどして生産効率が高いからである。こうして敗れた小資本は大資本に吸収されていき、資本はますます大資本へと集中していく。

ここで次のような状況が生じる。小資本は没落することによって雇用していた労働者を放り出す(いわゆるリストラである)。一方で大資本は規模がますます大きくなることで機械の導入率などが上がり、労働者に労働をさせる必要性は相対的に減っていく。以上の結果、労働者が市場に余るのである。この市場に余った労働者のことを産業予備軍という。予備軍という言葉には、資本がいつでも呼び出せる都合の良い存在というような意味が込められている。今風の言葉でいえば労働力は買い手市場になるのである。

このような産業予備軍の存在は資本にとって非常に都合が良い。先ほども述べたようにいつでも呼び出せるし、労働力の購入においても足元を見ることができる。しかも、労働者は他の労働者でなく自分を雇用してほしいので勝手に労働者同士で競争し、資本にとって都合の良い人材に育ってくれる。さらに、現在雇用している労働者たちも、産業予備軍の存在に脅かされ(いわゆる「代わりはいくらでもいるんだよ」というやつ)、ますます進んで資本の奴隷となっていくのである。

で、どうなる?

このように資本がますます強大になり、大資本に集中し、結果的にますます多くの労働者(しかも産業予備軍が多く含まれている)を生み出していくとどうなるか?

マルクスがいうところによると、こうである。労働者の立場はますます悪くなる。一方で労働者の数はどんどん増えていく(この増分には、競争に負け没落した資本家も含まれている)。その結果として、圧倒的多数派となった労働者階級がごく一部となった資本家を打ち倒す力となり、資本主義は滅ぶ。

……とマルクスが述べてはや150年以上が経過した。皆さんご存知のように資本主義は滅んでいない。労働者の境遇はむしろ良くなっているようにも思える。これらのことから、マルクスの以上の黙示録めいた予言に対しては、批判が少なくない(例えば宇野弘蔵はマルクス研究者であるものの、この予言を受け入れない)。

この文章はあくまで資本論を要約することが主眼であるから、以上について、私の立場は留保したい。

おわりに

いかがだったであろうか。私もこの文章を書く中で、資本論の新たな魅力に気づくことが多々あった。

とにかく私は、多くの人に資本論に触れてほしい。そして私のようにこの本に魅力を感じてほしいのである。

わかったらみんな、早速Amazon(労働者の味方であり敵)にゴーだ!!

それでは!


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