
臨床心理士であり二児の母でもある私が『小学校~それは小さな社会』を観た 感想その1~【ブラック教育文化ー生徒も教師も楽しくなさそうだけど大丈夫?】
「外国から見た日本の小学校とは」という視点で、私たちが当たり前に思っていた学校の日常から、学校の内情、生徒と教師の喜怒哀楽にまで迫っている本作。
この映画のいくつかのシーンを通して、日本の学校教育が良さと危うさを同時に孕んでいることが見て取れる。
なお、この映画はドキュメンタリーであり、実在する人物が登場するが、教師個人を批判する意図はまったくない。あくまでその教師たちすら巻き込む文化としての日本の学校教育の危うさをここに書いていきたい。
1つ目の危うさは、周りと同じことをやらせすぎる、同調圧力。例えば、靴箱のシーン。廊下をくねくね歩く生徒に「普通に」と注意するシーン。
同調圧力によって、自分はこうしたいという「自分らしさ」(アイデンティティ)が育まれにくくなる。同調圧力のなかで選ぶ自由も多様性もなく、自分らしさは削がれていく。
皮肉にも、映画の中では、先生たちはたびたび「自分らしさ」という言葉を口にして、その大切さを強調していた。その一方、彼らは「普通に(しろ)」という言葉を使って真逆のことを強いており、その矛盾に気づいていない。教師たちの意味する「自分らしさ」とは、生徒が望んだ多様なものではなく、あくまで教師たちが望む限定されたものなのではないか。
2つ目の危うさは言いなりにさせる構造である。
例えば避難訓練のシーン。「遅い!」と言った時の声のトーンと大きさ。卒業式の生徒たちへの言葉。一般の社会で昨今あまり聞かれることのない内容で一般社会でこれらをしたらハラスメントである。しかし、教師たちも苦しそうである。
避難訓練で、逆に生徒が急いで転びそうになったら、今度は「あわてるな!」と怒鳴ることが予測される。つまり、どっちにしても、何をしても、生徒たちは怒鳴られるのでは。心理学では、これをダブルバインド(板挟み)と呼ぶ。
映画内で撮られた言葉かけは、一見生徒たちの注意を引くわけだが、具体的な改善点を教師が指摘しているわけではない(実は指摘できないのでは)。
けっきょくダブルバインドと同じように、生徒たちはどうしていいかは分からないまま教師の顔色をうかがうばかりになる。これは子育てにおける親子関係でも同じことが起こりやすい。
皮肉にも、映画の中では、教師たちはたびたび「自主性を育む」という言葉を口にして、その大切さを強調していた。そのわりに受け身にさせることばかりをしており、その矛盾に気づいていないのである。教師たちの意味する「自主性」とは、生徒が望む自由な行動ではなく、あくまで教師たちが喜ぶ行動を「自主的」にやることに結果的になってしまっている。
それでは、どうすれば良かったのか? 例えば、避難訓練で声かけするとしたら、せめて「急いで」と冷静に言う。卒業式の練習では「ちょっとおかしかったかな? でも、これぐらい元気よく返事をすることをお勧めするよ」と答えることができるであろう。
3つの目の危うさは吊し上げをするスケープゴートである。
音楽会のシーン。私は胸が張り裂けそうな思いになり、映画を見ている時逃げたい気持ちになった。
と同時に、これは俳優たちが演技したフィクションではなく、実在する人物たちが実際にやり取りしたドキュメンタリーだったと我に返ると、やるせなさも感じた。
一般社会の職場で、これをやったら明らかなモラルハラスメントで、一発アウトである。
「練習しないとこうなるぞ」という他の生徒への裏メッセージが忍ばせられたやり取りであった。
しかし教師に悪意はないようである。教師たち自身も自分たちの教育をどうすればいいのか、これでいいのか、葛藤を抱いているシーンが随所にあったのである。
もしも生徒に演奏する能力や2重とびをする能力が足りなくて、練習しても上達しなかったら、どうなっていたのか? 決して美談にはならない。
教師の多くが(というか、あの学校の教師だけでなく、そもそも教育のあり方や子育てをしている親も含む)、「がんばること」と「できること」を分けて考えておらず、がんばればできると思い込んでいる。ここに根本的な問題がある。
走るのが速い人も遅い人もいるのと同じように、人のさまざまな能力には歴然とした遺伝的な差がグラデーションのようにある。
つまり、人によって必要な練習の量は違う。
練習してもできない人もいる(私がそうだった)。練習しなくてもできる人もいる。
何より練習を一律に強要しないことがよいより教育のあり方では、と考えさせられたシーンであった。
練習を全然しなくて、さらに演奏が全然できないなら、その生徒は担当学期から外れてもらえばいいだけの話である。なぜなら、演奏ができなかったとしたら、それは生徒の責任ではなく、選んだ大人の責任だからである。
ここで、再度誤解がないようにしたいのは、これまで取り上げた教師たちの指導方法には改善点が多々あるが、教師個人は批判されるべきとは思わない。
なぜなら、実は生徒たちだけでなく教師たちもまた、この日本の危うい教育文化から抜け出せない学校という職場環境に身を置いているからである。
伝統という名の呪縛に苦しんでいるのは生徒だけではないのである。