【アート#002】メディチ家2人目の主人公 | おい!アートの学び直しはどこいったんだ!
やあ!コミュリーマンです!
「何者だ!?」
と、お感じになる方がほとんどかと思いますので、気になる方については自己紹介目的の以下3つの無料記事にお目通しいただければ幸いです^^
#001【はじめまして】コミュニケーションが苦手でも大丈夫!自分に合ったコミュニケーションと出会う場所
#002【わがままに生きたっていいじゃない】わがままに生きるってどういうこと? |コミュリーマンが考える新しいわがままの定義
#003【失業者にはなりたくない】デジタル・AI革命時代に向けての「逃走者」ってなに? |コミュリーマンが考える「失業者」ではなく「逃走者」になる方法
サムネイル
お馴染みStable Diffusion Onlineに、「コジモ・デ・メディチの功罪について」をテーマに作成していただきました。(今回はちょっと時間かかりました←何に時間をかけとんねん)
もはや「シリーズ、メディチ」?
100円記事前編と100円記事後編でスタートした「シリーズ、アート」ですが、一つ以前の無料記事と併せて4記事でアートの話はほとんど出てきていません。ほぼメディチ家の話です^^
これは先日私のTweetにて、コミュリーマンとして成功するために「聖書を学び直していて感じた、圧倒的なまでのアート知識の無さ」から始まったシリーズであったはずにも関わらず!ずっとメディチ家の話を書いております!
「嘘つき!」
「詐欺師!」
言いすぎやんそれ T T
ね?
ビスマルク師も「歴史に学べ」と仰っていますよ?
「話を変えるな!」
「アートを学べ!」
「歴史は別シリーズを立てろ!」
「ビスマルクは100年以上前のドイツ(プロイセン)だろ!」
ごもっとも、、、orz
アートと言えど世界は広し、最も有名なアートと言えば「ルネサンス」だと考えた私。
その中でもパトロンとして超豪華アーティストを支えたメディチ家を学び直さないのはいかがなものか?と考え、いったん本記事まではメディチ家としてみたいと思います。(本記事最下部いつもの「最後に」を書き始める時点で考えが変わる可能性高しです)
というか、本記事のネタ元である英語版Wikipediaさん、読むのめっちゃ大変ねんで?^^
それでは参りましょう!
コジモ~2人目の主人公~
・コジモ・ディ・ジョヴァンニ・デ・メディチ(本名=コジモ・デ・メディチ:1389年9月27日 - 1464年8月1日)は、イタリアの銀行家、政治家で、イタリア・ルネサンス期の大部分においてメディチ家をフィレンツェの実効支配者として確立した。
✅コミュ:ふむふむ、映画ゴッドファーザー2のマイケル・コルレオーネ的な存在?アル様とデ・ニーロ様の出世作ですね♡(いいえ、私はゴッドファザー世代ではございません)
・彼の権力は、銀行家としての富と、他の有力で裕福な家族との通婚に由来していた。
✅先進国と呼ばれる国々ではいつの時代でも大抵そうですよね。日本でも江戸時代以前や戦後の財閥時代、いえいえ現在でも富の二極化は進行中。資産家や既得権者による富の一極集中は避けれないようです。
・コジモは芸術、学習、建築の後援者であった。彼は、古代以来にして初の独立した裸の男性彫刻であるドナテッロのダヴィデ像を含む、芸術と文化に60 万金フロリン(インフレ調整後約 5 億ドル) を費やした。
✅コミュ:ほう!古代史依頼の裸の男性像は、ニンジャ!(ごめんなさいタートルズしつこい)もとい、パトロン・メディチの資金援助を受けたドナテッロの作品なのですねえ^^ほーら、やーっと「シリーズ、アート」っぽくなってきました^^
・そんな影響力にもかかわらず、コジモ自身の力は絶対的なものではなかった。フィレンツェの立法評議会は生涯を通じて彼の提案に抵抗することがあり、彼は独裁者ではなく平等の第一人者とみなされていた。
✅コミュ:おお!平等の第一人者とな!どういうことなのでしょう!深堀りしていきましょうか^^
さくーっと、コジモ
・コジモ・デ・メディチは、 1389年9月27日にフィレンツェでジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチとその妻ピッカルダ・ブエリ(前記事の主人公夫妻)の間に生を受ける。4人兄弟の長男である。双子として誕生したが、弟は短期間しか生きることができなかった。
・コジモは、父ジョバンニから、富と銀行業務の専門知識の両方を受け継いだ。彼は自身の銀行であるメディチ銀行を設立するまで、ローマでヴィエリの支店を独立して運営した。そして1397年、メディチ銀行を設立する。その後20年間にわたりメディチ銀行はローマ、ジュネーブ、ヴェネツィアに支店を開設し、一時的にナポリにも支店を開設した。利益の大部分はローマから得られたものである。
✅コミュ:ほう!ローマが栄えているのは、メディチ家の影響がありそうですねえ^^
・メディチ家の支店が遠方にあるため、この銀行は教皇庁の業務に最適な銀行であった。なぜなら、ヨーロッパの多くの地域の司教区が最寄りの支店に手数料を支払うことができ、その支店長が教皇の免許証を発行することができたからである。
✅コミュ:ふむ、教皇庁との談合や癒着(いやそんなことは書いてない)によって、どんどん儲けたんですねえ^^
・教皇たちは、銀行家の卸売取引を通じて、香辛料、織物、遺物などのさまざまな商品をより簡単に注文できるようになった。
✅コミュ:ほら!やっぱズブズブじゃないでしょうか!?
ちょっと寄り道、【アート#001.5】
前回の記事にて、一人目の主人公である父ジョバンニの解説をいたしましたが、その際にドイツに追放・投獄された対立教皇ヨハネ23世の釈放した話しに触れましたが、あまり詳しいことは書かれておりませんでしたね。そのエピソードが今回の主人公コジモの英語版Wikipediaで紹介されておりましたのでご紹介いたします^^
1410年、ジョヴァンニは当時は単なるバルダッサーレ・コッサ(ヨハネ23世の本名)として知られていたヨハネ23世に、枢機卿の職を買う資金を貸し、彼が教皇権を主張した後はメディチ銀行を教皇の全財政の責任者にすることで返済している。これによりメディチ家には絶大な権力が与えられ、例えば債務不履行者を破門すると脅すことが可能になった。
✅コミュ:やはり権力を握るためには、莫大な金を動かす力が必要なのですね。(傀儡者も必要な気がしてならないですが)
しかし、1415年に不運がメディチ銀行を襲う。コンスタンツ公会議がヨハネス23世を解任し、ローマ教皇庁の財政に関して彼らが保持していた独占権を奪った。
✅コミュ:コンスタンツ公会議(ドイツ南部)は「1414年から1418年にかけて神聖ローマ帝国内のコンスタンツ司教領で開催されたカトリック教会の公会議。3人の対立教皇を廃し、一人の正統なローマ教皇を立てることで教会大分裂(シスマ)を終結させた。」という理解だけに留めておきましょう!とてもじゃないけど話が広がり過ぎます^^
ヨハネ23世は、教会に対するさまざまな罪状で告発された教会評議会の敵意に直面し、メディチ家が身代金を支払い亡命を認めるまで、神聖ローマ皇帝ジギスムントによってハイデルベルク城に監禁された。
✅コミュ:という感じで、ここまでが前回の記事の補足&コジモの物語にも深くかかわる部分のご説明でした^^
コジモ・ウェディング
すみません名前じゃないです、コジモの結婚です^^
1415年頃、コジモはコンテッシーナ・デ・バルディ(ヴェルニオ伯アレッサンドロ・ディ・ソッツォ・バルディとカミラ・パノッキエスキの娘)と結婚した。この結婚式は、1345年の劇的な破綻までヨーロッパで最も裕福な銀行の一つを経営していた、長年の貴族であるバルディ家との関係を再確認するための取り組みとして、彼の父親によって手配された。
✅コミュ:政略結婚ですねえ^^
フィレンツェの政治
コジモは1416年のプリオーレ(最高執政官・現在の大統領)に選ばれると、いくつもの重要な役職を務めることになる。
✅コミュ:父に続きすごいですね!
1433年、フィレンツェに対するコジモの権力は、アルビッツィ家(有力な家計でメディチ家のライバル)などの人物が率いる反メディチ党にとって脅威のように見え始めた。
✅コミュ:行き過ぎた権力は脅威に見えるたのでしょうか。
その後コジモは国会の争いに巻き込まれ、政府を転覆させるというぬれぎぬで死刑の宣告を受ける。具体的にはルッカ共和国征服に失敗した罪でヴェッキオ宮殿に投獄されたが、その刑期を亡命刑に変えることに成功した。その後はパトヴァへの10年間の追放となる。パトヴァに流刑されたコジモはヴェネツィアに移り、同じく亡命していたロレンツォと合流した。そして、追放から1年後には内戦も暴動もなしに勝利の帰還を果たしました。
✅コミュ:このあたりは深く調べないとわからなさそうです><
パトロン
1434年、コジモがフィレンツェの政治的権力を握る。コジモは、表向きは政治的野心はほとんどないふりをし従来の共和制を維持しつつ、その裏で絶対的な自分の味方をたくさん作り、メディチ家の権力支配から逃れられないように固定化した。それは一種の黒幕政治(独裁)で、フィレンツェの市民精神として生まれた「抽選による委員選出と短い任期による交替制」の中身を空洞化させた。
✅怖い人ですねえ!^^しかし、これだけでは善し悪しは測れません。
コジモは私財を使ってフィレンツェの政治制度を統制し、雄弁家、詩人、哲学者を後援し[、また一連の芸術的功績を挙げた。
✅コミュ:アートっぽくなってきましたねえ^^
芸術
コジモはフィレンツェの市民生活を豊かにするために家財を惜しみなく使った。
✅コミュ:おお、市民生活のためだったのですね^^
サルビアティ(画家)のジバルドーネ(雑記帳←こういうの当たり前に書いてて意訳がゼロw)によると、コジモは次のように述べたとされている。
✅コミュ:ちなみに、サルビアティは1510年生まれとあるので、コジモよりも50年ほど後の画家さん(彼はフレスコ画や油絵、野心的な歴史画に取り組んだが、多くの肖像画を描き、メディチ家のためにタペストリーをデザインした)だったようですよ^^
コジモは若きミケロッツォ・ミケロッツィを雇い、今日おそらくフィレンツェの典型的な宮殿、厳格で壮麗なメディチ宮殿を建設させた。この建物には、ほぼ完全な状態で残っている唯一の 15 世紀の内装として、 1461 年に完成したベノッツォ ゴッツォーリのフレスコ画が描かれた東方三博士礼拝堂が含まれており、三賢者を装ってトスカーナ中をパレードするメディチ家のメンバーの肖像画が描かれている。
✅コミュ:こういうのですねえ!別記事で学んでいきたいと思います^^
コジモはフラ・アンジェリコ、フラ・フィリッポ・リッピ、そしてホロフェルネスを殺害したことで有名なドナテッロの後援者であり親友でもありました。
✅コミュ:ドナテッロってそうだったのですか!?学び直さねば!
風変わりで破産した建築家ブルネレスキは1436 年にサンタ マリア デル フィオーレのドーム(ドゥオーモ)を完成させることができた。
✅コミュ:そうなのかあ^^
図書館
コジモは、稀有な知恵と計り知れない富を持った国民であったため、特に彼が自分の家だけでなく教会、修道院、その他の豪華な建造物の建設に高額を費やしたため、ヨーロッパ中で最も称賛された。
この国だけでなく世界の他の多くの地域でも、彼は子孫を残すことよりも自分の名前を不滅に残すことに関心があったため、これらすべてを賞賛に値する素晴らしさと真に堂々とした精神で行っていた。
1444 年、コジモはサンマルコにフィレンツェ初の公共図書館を設立した。この図書館は、ルネサンス期のフィレンツェの人文主義運動にとって中心的な役割を果たした。
コジモは図書館を修復し、人々が無料で利用できる蔵書を提供するために必要な資金を寄付した。彼がそのような場所の建設に資金を提供できたことで、市の指導者という特権的な立場に置かれた。彼はこの学習の実験室へのアクセスを与えられた人々を厳選し、この社会的力学を通じて積極的に共和国の政治を形成しました。
✅コミュ:この貢献(もちろん他も)は素晴らしいですねえ!
彼の図書館はルネサンス様式の建築様式と優れた芸術作品で知られていた。コジモ自身は3冊の本しか持たずに育ったが、30歳になるまでに彼のコレクションは70冊に増えた。書籍の保存に協力を求めてきた文人たちのグループによってヒューマニズムを紹介された後、彼はこの運動を愛するようになり、書籍収集が中心的な活動である文学を通じてギリシャとローマの文明を再生する取り組みを喜んで後援した。
真の愛書家としてのロマンチックな放浪癖に勇気付けられたこの厳格な銀行家(コジモw)は、本に関わるほぼすべての仕事を保証しながら、本を探す旅にも何度か乗り出した。
✅コミュ:芸術に対してもそうですが、図書への貢献が尋常じゃないです。特筆すべきはヒューマニズム(人間主義)運動を愛するようになったという点、これには個人的好感を禁じえません^^これはおそらくですが、ルネサンス以前の中世ヨーロッパが、封建社会とカトリック教会の戒律によって、人々が束縛されてきた歴史が少なからず(おそらくは直接的に)関係しているでしょう。
哲学
哲学の分野では、コジモはゲミストゥス・プレトンの講義に影響を受け、マルシリオ・フィチーノと新プラトン主義を復活させようとする彼の試みを支持した。コジモはフィチーノにプラトン全集のラテン語翻訳(史上初の全訳)を依頼し、ニッコロ・デ・ニッコリやレオナルド・ブルーニなどの知識人と共有した膨大な蔵書を収集した。
✅コミュ:はい、ごめんなさい。一個もわかりません。全く意味がわかりません。学び直していずれ共有いたしますね^^
彼はまた、1445 年にフィレンツェにプラトン アカデミーを設立した。 彼は孫のロレンツォ・デ・メディチに人文科学教育を提供している。コジモは確かにルネサンスの知的生活に影響を与えたが、後に最大のパトロンとみなされていたのはロレンツォであった。
参考:簡単な年表
1434年: コジモ・メディチがフィレンツェで政治的な権力を握る。
1437年: フィレンツェの公共事業に積極的に関与し、都市の美化と改善に取り組む。
1439年: フィレンツェでフェラーラ・フィレンツェ公会議が開催され、コジモ・メディチがフィレンツェ代表として出席し、重要な役割を果たす。
1444年: メディチ図書館(ローレンツィアーナ図書館)が創設され、貴重な文書や古典的な著作が収蔵される。
1454年: フィレンツェの憲法が改訂され、コジモ・メディチの影響力が強化される。
1464年: コジモ・メディチが死去し、息子のピエロが後を継ぐが、彼の統治は短命に終わる。
1469年: ピエロ・ディ・コジモが追放され、メディチ家が一時的にフィレンツェから追放される。
1478年: メディチ家の追放後、ピエロの兄弟であるロレンツォ・デ・メディチがフィレンツェに帰還し、政治的な復権を果たす。
1480年: ロレンツォ・デ・メディチがフィレンツェの政治的な安定を確立し、"il Magnifico(偉大なる者)"の称号で知られるようになる。
メディチ家の最後
メディチ家の最後
メディチ家は、16世紀初頭に絶えた。1569年に最後のメディチ家当主であるジャンナ・デ・メディチが亡くなった後、メディチ家の男系は断絶した。メディチ家の遺産と影響力は、ジャンナの夫でありトスカーナ大公となったロレンツォ・デ・メディチの子孫に引き継がれている。彼らは後にトスカーナ大公国の統治者となり、メディチ家の名を継承したが、男系のメディチ家は終わりを迎えた。
最後に
お疲れ様でした!(一日に二記事は素人の頭では大変ですね^^)
それでは、また次回です。
てかもはやコミュリーマンしてないね!w
コミュ力上げて、モチベを上げよう!
それが、本当になりたい自分になる第一歩です!
ありがとうございました!^^
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