見出し画像

「三島由紀夫 人と文学」

 女友達とはすべてを汲み尽くさなかった女性の謂いである、みたいなことが『友情論』(ボナール)に書いてあったと記憶している。若者のころはなにもかも汲み尽くしたいような愛情につかまるので、女友達への気持ちよく風通しのいい感情の価値にももちろん気づいていた。本を、ぼくは女友達と思って選ぼうとしている。これは、本は女と思って選ぶ、とだれかが(フランス人かな)いっていたのをちょっとずらして考えたことである。
 他人を汲み尽くすことはむずかしいし、そんなことだれも考えない。でも若いころの恋愛や読書となると、そうでもなくなる。そっとしておきたい謎だ。すべての本を読むことはできないし、また或る本のすべてを理解することもできない。
 内容よりもまず表紙や裏表紙やそでにある山口果林の写真――安部公房が撮ったと思われる――、それに魅了されてジャケ買いした本『安部公房とわたし』(山口果林著)によると、つぎの世紀にのこる作家を3人あげてと問題をだしとき、安部公房の答えは、宮沢賢治と太宰治であった。3人というの2人しかあげなかったのは、3人目は自分(安部公房)だと思っていたのではないかと山口果林は書いている。
 職場近くの大きくも小さくもない書店に入ったのは、この20世紀に出された質問の答えをさぐろうとしたからだが、宮沢賢治や太宰治をさがす目の前に、去年没後50年でにぎやかだった三島由紀夫のオレンジ色の文庫本が目立っていた。
 そういえば、まえに一緒に仕事をしたバイトさんが三島由紀夫のファンだった。いつも寝起きのようなまぶしげな目つきの彼女は、読み終わってしまうのがもったいなくて読めない、と語っていた。『午後の曳航』と『永すぎた春』くらいしか読んでいないぼくは、彼女の造詣をひきだすほどの会話ができないのを残念に思いながら、それほどまでに! とおどろいた。そのような熱烈なファンは少なくないのだろう。あるいは、安部公房があげきれなかったあとひとりは三島由紀夫かもしれないとも思う。そうだとしても多くの人が納得するのではないか。

 安部公房は、何度も三島邸での対話の楽しさを語ってくれた。対話の相手として、三島由紀夫は政治信条は全く違っていても最高だったと話していた。「もしも、クーデターが起きて反対勢力を捕えることになっても、安部君だけは家の地下室に匿(かくま)ってやるから心配しなくていい。そのかわり少食になっておくように……」と冗談を言っていたという。

 と『安部公房とわたし』に書いてあるが、事件が起きた翌日は、マスコミから身をくらますには好都合ということで、前から予定していた旅行にふたりででかけている。

 うろおぼえだが、良質の小説が音楽の演奏だとすると、三島の小説はオルゴールであるみたいな批評をして物議をかもした(?)のは福田恆存であった。『午後の曳航』の解説で読んだ気がしたが、立ち読みしてしらべてみると、没後50年の記念ということか文庫の解説陣がすっかり刷新されていて福田恆存の解説は見当たらなかった。
 そこで別の日にやはり職場近くの大きめのこちらは古書店に飛び込んで、古い発行の文庫本をさがすとその文章はあった。『午後の曳航』ではなく『仮面の告白』に。『仮面の告白』は最初の数ページしか読んだおぼえがない。最初だけ読んで、後ろの解説を読んだのだろう。その古書を買ってひらくとこんなふうに福田恆存は書いている。

 ぼくがある場所で三島由紀夫の作品のことを音楽ではなくオルゴオルだと放言したのは、つまりそのことなので、かれ自身のことばでいえば「詩人」ではなくて「詩そのもの」だということになるのだろう。かれの作品は美しい音にみちている。が、いかにも不安定だ――それはオルゴオルの気まぐれ。読者は、かれが自分の気まぐれにしたがって、興ふかげに、そしていくぶんたいくつそうにそれをゆりうごかしているのに聴きほれる。が、それは音楽の与える喜びとはあきらかにべつなものなのだ。

 「『仮面の告白』をしさいに読んでみたまえ。それがずいぶん苦しい小説だということがわかる。」とも書いてある。オルゴオルとあらためて述べたすぐあとに「…オルゴオルではなくて、りっぱな音楽なのである。『仮面の告白』において、そのことがもっともはっきり証明されている。」と展開させる福田の解説もなにやら苦しげだ。
 福田恆存のは、本編の後ろについた、『仮面の告白』に的をしぼった解説だが、ほかに佐伯彰一の書いた「三島由紀夫 人と文学」と題された解説も載っていて、それも――帰宅する電車のなかで――読んだ。
 片手で開いてもって読みはじめたが、眠気におそわれ、もった腕がじょじょに垂れさがっていく。そして隣で分厚い文庫本を読んでいる30半ばくらいの男性の視界に「三島由紀夫 人と文学」と記されたページがさらされる。「おっと、隣のおっさん、いまさらミシマかよ」などとわらわれたかもしれないと、はっと目ざめて気持ちをいれかえたが、しばらくするとまた居眠りしてしまったらしく、隣人の視界にふたたび「三島由紀夫 人と文学」のページがさらされていた。