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なぜ役割を演じていたのか?それは自分の誇りを取り戻すプロセスだったから。

私たちは内と外の顔を持っていて、上手く演じながら生きています。内と外が完全に一致したら、悩みなんか吹き飛ぶでしょうね。
 
ですが、生きづらさを抱えてこられた方は、自分を演じるのが習慣化しているので、本来の自分からかけ離れた状態になって、苦しいんです。
 

役割を演じると・・・
・過緊張、過覚醒
・落ち着きがない
・自分という感覚がない
・人の気持ちをいつも考えている
乖離状態に。
 
一人でいる時は穏やかだけど、人と接すると瞬時的にこの役割が顔をのぞかせます。
 

「この役割は誰のために演じている?」そう、母親のために演じている。
「お母さんが可哀想」「自分が可哀想」と同じこと。「お母さんを助けなきゃ」「自分を助けなきゃ」本当に可哀想なの?
 
可哀想に見えていただけなのかもしれないし、母親が可哀想に見えるという眼鏡をかけていたのかもしれない。


 
「可哀想」という「憐れみ」を入れられた私は、「自分は何も出来ないダメな人間」という前提がありました。

洗脳が徐々にとけると、「私は強かったんだ。だって、あんな環境で生き残ってきたのだから」と自分への認識が変化します。


 
自分の心・無意識・光と対話して自分への誇りを取り戻すプロセスは何物にも代えがたい。自分を憐れみ、責め続けてきたけれども、あきらめずに私と
向きあってくれる人と出会う機会が得られた。
 
その相手は自分の一部。これからも自我を手放しつつ、光へ戻るプロセスを楽しんでいきたい。
 
闇の中をくぐり抜けて、光の方へ歩んでいる仲間と共に✨

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kiyomi
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