『玉城ティナは夢想する』 もしかすると、「撮りたい」は「なりたい」というあこがれなのかもしれない。
『玉城ティナは夢想する』(2017年/山戸結希)
【あらすじ】
玉城ティナになりたいと妄想する
バイオレンス映画。皮肉ではなく、これは暴力についての映画だ。「今そこにある美に対してカメラを向ける」ということの暴力性を山戸結希は認識しつつ、欲望のままに被写体を「傷付ける」。そして、傷付ければ傷付けるほどに、被写体・玉城ティナの刹那的な美しさが増すことも熟知している。
激しいカット割はまさしく被写体そのものを「解体/切断」していて、カメラは「ナイフ」のようである。「ポップで可愛らしい記号よりもティナちゃんには背徳と退廃が似合うの!」という作家の願望を、全身で享受する玉城ティナの揺るぎない強固な美を証明できている傑作だと感じる。
加えて、すべての女の子たちの集合的無意識になりたいと欲求しているのは、むしろ玉城ティナではなく山戸結希の方であって、そのナルシズムもまた暴力的だと感じる。
もう1つ重要なのは、本編の中で玉城ティナ自身が「玉城ティナになりたい」と「あこがれ」を抱くことだ。
たとえば、シラフで言ってしまえば、僕だって玉城ティナになりたい(え?)。
玉城ティナを愛でたいとか応援したいとかではない、玉城ティナに「なりたい」のだ。
野球少年が大谷翔平みたいになりたい、という「あこがれ」とは異なる。なぜなら、それは本人の才能と努力次第で達成可能だからだ。
しかし、ぼくが「玉城ティナ」になることは、絶対にない。絶対的に成就できない願い。それこそが「あこがれ」のエレガントだといえる。
これは、そういった永遠の渇きを潤すための呪いの映画なのではないか。
仮にも一本の作品が、男性観客に「女性になりたい」と思わせられたら、それこそフェミニズムとして成功しているといえる。もしくは「女に生まれたかった」ということでも良い。
あこがれさせられたら。異性目線の恋愛や性愛でなく、ただ純粋に「なりたい」という目線。が、本作においては最も大切だと感じる。
逆に女性観客にとっては「女に生まれてよかった」ということなので、女であることを誇れるという、それこそが当たり前のフェミニズムである。
だから本作はぼくにとって、極めて正しいフェミニズム作品だと思っている。
しかし、これ言っていいのか知らんけど、玉城ティナが着用するべきメガネは果たしてあれが最適解だったのだろうか?とコメントしてしまうくらい、装飾としてのメガネ選びは慎重に演出してもらいたい。この命題については、メガネっ娘ヲタ界隈でもっと激論されてよいはず。