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『母なる証明』 そして人生はつづく、過ちを犯しては、忘れながら。
【あらすじ】
息子の冤罪を晴らすために母ちゃんが頑張る
始まった瞬間、アヴァンタイトルの時点で、今から目撃する映画は間違いなく傑作だと確信できる作品というのがあって、それと遭遇するときの快感は映画に触れることをやめられない理由の一つでもあるけれど、ポン・ジュノのフィルモグラフィはこれに該当する。
例えば『殺人の追憶』のアヴァンは子どもの目線から始まり、稲穂が揺れる牧歌的な日常の中に強烈な残酷が静止している、という風景が淡々と切り取られていく。光と闇、子どもと死体、主人公の真似をする少年。あまりにも引き込まれた。
『母なる証明』のアヴァンは(確かこのことはキネ旬でのポン・ジュノとの対談で黒沢清が指摘していたことだが)、音楽が鳴りキム・ヘジャが踊るのではなく、キム・ヘジャが踊ると同時に音楽が鳴る、という具合に撮られている。
映画を開始させるのは「映画」ではなく「母」であり、母の支配下の中で、映画を終了させるのもまた母だった。
母が踊り出す直前にハエの羽音がかすかに聞こえる。死の予感。鬱々とした僅かな時間の中で、軽やかなギターの音色が響く。そして母は舞い、自らの目を隠して笑う。
このアヴァンが『母なる証明』という映画そのものであり、作品全体の伏線としても機能しつつ、誰しもの興味を掴んで離さない。ここに於ける素晴らしさはラストシーンでも同様で、劇場で戦慄して放心状態に陥った記憶は、昨日のことのように思い出せる。
『ほえる犬は噛まない』や『殺人の追憶』、『グエムル』では、韓国社会の諸問題を風刺したり、追及したりする傾向が強く出ていた。それと同時に、その社会と諸個人や家族との結び付きについても描かずにはいられない、という作家性があった。
弱者を取り巻く社会と、社会が取り巻く弱者に対するポン・ジュノの視点は『グエムル』である種の完成形を提示したといえる。
したがって、『母なる証明』が「社会」から「家族」という、公的領域から私的領域へとあからさまに視点を転換したのも納得がいく。家族、母親という生き物を掘り下げるミニマルな試み。本作は彼のフィルモグラフィ上の転換期でありながら、最も陰鬱で、最も暴力的で、最も歪な映画だ。
所謂ハードボイルドの主人公を母親が演じるという、それだけで一つのジャンル解体に成功しているけれど、僕が本作をノワールとしての名作だと断固支持するのは、あのラストの後味があるからこそだ。
彼女は、あのような選択をした後も、「生きていく」しかないという居心地の悪さ。映画は終わっても、あの母親は「生きていく」のだ。
社会性や道徳性を食いつぶす、真に恐ろしい愛と共依存。思えば『悪魔のいけにえ』のラストシーンも夕日の逆光で終わる。それ自体が恐ろしいのではない。その後も人生は続いてしまうというのが、僕には恐ろしい。
もちろん、ヒッチコックが生きていたら嫉妬しそうなプロットも映像も特筆するまでもない素晴らしさなのだけれど、ウォンビンがヤバい。
あの眼差し。兵役から帰ってきて復帰一発目がコレという運の持ち主。人の心の時計を停止させてしまう演技。即ち、もうあれはほとんど呪いに近い。ファム・ファタールは、同じ屋根の下にいる。
あと、葬式で母ちゃんをビンタする女の人がかっこよかったです。
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