「客観的事実」をいったん保留する
「思考」に関するキーコンセプト
よくある「思考の落とし穴」に落ちないために
44:エポケー
単純でないもの、明確でないものを明晰に把握しようとすることは難しい。ソクラテスの「無知の知」の項において確認した通り、短兵急に「わかったつもり」になる事は大きな誤謬の元になります。この時、わかったつもりにならないで、判断を留保することをフッサールはエポケーと名付けました。エポケーとは古代ギリシャ語で「停止、中止、中断」を意味する言葉です。
このように説明するとエポケーを単なる「判断留保」のことだと思われるかもしれません。実際にフッサール自身の著作では「判断停止」という言葉が用いられています。では、なぜエポケーなどという用語を用いるのか。
この違いを理解する為に、エポケーを具体的な喩えで考えてみましょう。
目の前に存在しているリンゴについて
A:リンゴが存在している という客観的実在を原因として
B:私がそのリンゴを見ている という主観的認識を結果とする考え方を止めて
C:リンゴを認識している自分がいる という主観的認識を原因として
D:リンゴがそこに実在していると考える という主観的認識を結果とする
というのが、フッサールが唱えた「還元」というプロセスです。客観的実在を、主観的認識に「還元」する、ということです。
この時、エポケーとは、先述した「Aを原因として、Bという結果がある」という考え方を「一旦、止める」という点に該当します。
引用が長くなりましたが、全然分かりません(^^;;
客観的実在を主観的認識に還元とは、、、誰か分かりやすく教えて下さい。
簡単に言えば、エポケーとは「客観的実在をもとに主観的認識が生まれる」という客体→主体の論理構造に「本当にそれで正しいのか」という疑いを差し向けるということ、確かにそのように思えるけれども、一旦それはカッコに入れておこう、ということです。
筆者は簡単に言えば、と言っていますが、全然簡単じゃないですよね(^^;;
このエポケーというコンセプトを知ることは、現代を生きる私たちにどんな意味があるのでしょうか。いろんな示唆をもたらしてくれるコンセプトだと思いますが、私は「他者理解の難しさ」という点を挙げたいと思います。
フッサールは必ずしもそう指摘しているわけではないのですが、エポケーとはつまり「あなたが客観的事実だと考えているものを、一度留保してみなさい」ということです。そうすることで対話できる余地が広がる、ということです。
他者とのあいだに相互理解が成立しないという時、自分に見えている世界像と相手に見えている世界像には大きな齟齬がある可能性があります。
私たちが持っている「客観的な世界像」は、そもそも主観的なものでしかあり得ない、その世界像を確信するのでもなく、捨て去るのでもなく、いわば中途半端な経過措置として、一旦「カッコに入れる」という中庸の姿勢=エポケーの考え方は、このような時代だからこそ求められる知的態度なのではないかと思います。
引用ばかり長くなってしまった(^^;;
今回の話しもよく分からなかった。
思考に関するキーコンセプトになってから、全くついていけません。頭が固くなった証拠かなぁ。。。