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PSYCHO-PASS――AI社会の向かう未来

アニメ「PSYCHO-PASS」の第一期、第二期を見た。

攻殻機動隊やCyber Pankといった近未来SFアニメを好んで見る僕にとっては、今更も今更の視聴となったわけだが、案の定、僕の好きなジャンルのアニメだった。

PSYCHO-PASSは、今からおよそ100年後における公安局の活躍を描いた物語である。最も特徴的なのは、「シビュラシステム」と呼ばれる社会を統括する巨大なAIが存在していることだ。この巨大なAIが人々の素質、職業、ひいては犯罪を犯す可能性――作中では「犯罪係数」と呼ばれている―を決定し、あらゆる人々の運命をコントロールしている。AIによる徹底的な管理社会のなかで、人々はどのように生き、どのように問い、世界と向き合うのか。そうした重いテーマを、公安局の目を通した警察群像劇として提示している。

さて、このアニメを通して、僕としてもいろいろな問いを持ったわけだが、その中でも「AIによる管理社会と資本主義」というテーマについてここでは書いてみたい。

先に述べておくが、僕は資本主義を擁護あるいは非難したいわけでも、AIの発達を嫌悪しているわけでもない。むしろ、AIの技術的発展には期待すらしている。そのうえであえて問いたいのは、AIによる管理社会は、最終的に資本主義と相いれない事態を引き起こすのではないか、ということである。

仮にAIが人の運命の実権を握っているのであれば、この社会に職業選択の自由などは存在しない。実際、主人公の常守朱は、シビュラシステムによって公安局に適性ある人材として選ばれたから公安局に配属となったのであり、その根拠となったものは人々の生体反応から割り出された犯罪係数である。その犯罪係数はほとんど努力によって補うことはできず、結果として日本は、ゆるやかなものではあれ、身分制・封建制社会へと逆戻りしていることがうかがえる。それも、この身分制度は国家主導の、国家権力に裏付けられたものですらある。

そして、公安局の対峙するテロの多くは、シビュラシステムによって社会に不適正と判断された人々の嫉妬によってもたらされる。言い換えれば、人生の早い時点で、自分ではどうにもならない「犯罪係数」という素質によって選択したい道をあきらめさせられた人たちが、「こんな社会はクソだ、シビュラシステムはクソだ」と怒りを発散するのだ。

つまり、シビュラシステムは、少なくとも進歩した資本主義とはまったく相容れない思想――選択と機会の不平等――を前提としたシステムなのである。そもそも、「囲い込み」によって農地を収奪された農民が都市労働者となり、大工場に取り込まれていったように、身分制の解体と資本主義は切っても切り離せない間柄にある。とすれば、やはり、理想的には身分制の解体と実力主義をその根本に携えた資本主義は、シビュラシステムによる統治と相容れないことになる。

だがその一方で、複数の企業が作中でのキータームとして登場することを考慮すれば、この社会は多分に資本主義的な要素を含んでいることも推測される。第二期では巨大な薬品会社が登場したように、いわゆる大資本家はこの世界にも存在している。暴動やテロの原因はおそらく、単なる選択と機会の不平等によるのではなく、そこに伴わざるを得ない経済的格差によるものでもある。

このように、一方では、選択の機会の不平等があり、もう一方ではシビュラシステムによって選ばれた人間が、まさしく「神の命」によって利権を獲得する構造がある。

この矛盾をシビュラシステムはどのように考えているのか――ここで言える可能性は2つだ。
ひとつは、この歪な状態を是とした場合である。この経済構造がシビュラシステムによる到達点であるとするならば、経済システムの根幹にある思想と実際の経済システムのあいだにある根本的なミスマッチ、およびそこから生じうるテロについては、偶発的なものとして許容されているということになる。つまり、事件は起こるが、それはシステム上折り込み済みであるということだ。だが、作中で起こる諸々の事件にシビュラシステムが十分に対応できず、常守朱という個人に事件の解決を頼っている以上、次の場合の方がおそらくは実態に近いのだろう。

もう一つは、この状態を否とする場合である。そうであるならば、この経済構造はシビュラシステムにとって必ずしも好ましい状態ではなく、むしろこの状態は次なる社会への足掛かりにすぎないということになる。こちらの場合の方が実態に近いと述べたが、事実、作中には、シビュラシステムが外部の存在を取り込んでより高度な能力を得ようとする描写がある。シビュラシステムは、時には自身を破滅させようとするイレギュラーさえも呑み込んで、自己の成長を促そうとする。これにより、シビュラシステムは完全な管理社会の達成へと近づく。

シビュラシステムが最終的に達成しようとする社会とは、いかなるものなのか。徹底した不平等により成立する社会か、それとも、シビュラシステムの意向を推し進めれば、完全に平等な社会が到来するのか――答えは未来にならなければわからない。そして、AIの発達が目覚ましい昨今、この問題は私たちとは無縁のものではないと、僕にはそう思われるのである。



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