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賽銭泥棒が逮捕されました。お寺に救いはあるんでしょうか?

私たちが賽銭を投げるのは、誰のためだろうか。

 夜のニュースを聞くともなく聞いていたら、どこかの神社で賽銭泥棒が逮捕されたと伝えていた。ドジな人らしく、なにやらミスを犯して逃げることができず、現行犯で引き渡されたらしい。罪は罪だが、賽銭箱に入っているお金なんてせいぜい数千円なのを知っていての犯行だろう。たかだか数千円のために賽銭箱に手を出す時の状況を想像すると、ただ悪いやつでは片付けられない。相当お金に困っているのだろう。働けない事情があるのかも知れない。ただ働くのは嫌いで、盗んだ金で晩酌にビールでも飲みたかったのかも知れない。おっちょこちょいに捕まってしまうあたりが落語の登場人物のようで、どこか愛嬌すら感じてしまう。もちろん、人のものを盗むのは悪い。

 しかし、そもそも私たちが賽銭を投げるのは、誰のためだろうか。その賽銭泥棒のおじさんのためではないけれど、その寺の住職のためでもない。自分の為だ。自分の幸福のために、神様に捧げた金のはずなのだ。それをその寺の住職が当然のように、所有権を主張している。これは少しおかしくないだろうか。住職も生きるために身銭は必要だ。神様を守る費用としても必要だろう。それは理解できる。しかし、貧困を理由に賽銭泥棒という罪を犯した人を捕まえて、指を差して「こいつが犯人です。捕まえてください」なんて言うのは、どこか違うのではないだろうか。

 賽銭の原理、つまり、神様にお金を捧げることの本来の意味は、利他的に財産を分かちあおう(少なくとも余剰の資産は・・)というところから始まったはずだ。利他の精神こそが、自らの幸福に繋がるというブッダの教えもある。

 わたしは、困った貧乏人を「こいつが犯人です」と警察に突き出す住職よりも、働くのが嫌いだけどビールを飲みたくてついつい賽銭に手を出しちゃう人間味のあるオジさんに賽銭を使ってもらいたい。5円だけど。

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