苦手なんか、みじん切りにしてしまえ。

私は運動が苦手だ。典型的な運動音痴だ。
そして同調圧力の強い人が苦手だ。
さらに、誰かと比べて自分が負けているとか劣っているとか自覚することが、めちゃくちゃ苦手だ。

上記3点を要約すると、私という人間はチームスポーツがとんでもなく苦手だ、ということがお分かりいただけると思う。

(なのに中高6年間バレーボール部に所属し続け、永遠の補欠を貫き通した。過去の自分、忍耐強くて偉い。そして愚か。)

こんなふうに、生きていく上でどうしても嫌なコト、人、もの、って存在する。
しかもこんなのは氷山の一角に過ぎない。
不器用で妙にプライドの高い私には、「嫌だ」「苦手だ」「やりたくない」が山のように存在する。

「こんなことではダメだ!好きなことだけやってても絶対に上手くいかない。我慢して克服せねば!」

20代前半の私には謎の使命感があった。
自分をまともな人間にする、という謎の使命感が。

今、その頃の私に声をかけてもよいのなら、きっとこう言うと思う。
「それ、ほとんど意味ないよ」と。

結局、苦手なものは苦手

嫌な人と上手く付き合う方法を模索したり、
苦手な仕事に率先して取り組んでみたり、
嫌なものを嫌じゃないと思い込んでみたり。

20代前半の私は、そんなことばかりに気力と体力を使っていた。
今だからこそ思うが、なぜそんな生きづらい生き方を選ぶのか。ドMなのか。
「誰にも嫌われたくない」そんなことばかりを考えていた。

それで得たものがなんなのかと言われると、実はほぼ何にもない。
仕事のスキルとかそういうものは身についたけれども、転職しちゃったので今には生かされていない。
しかもそれは、別に「嫌なことからしか学べないこと」でもなかったように思う。

「嫌い」も「好き」も、全てに両方存在する

30代前半に差し掛かり、少しだけいろいろなことを経験して考えるようになったのが、
「どんなものにでも嫌だと感じる部分と好きだと感じる部分が両立していて、それでいい」だ。

嫌なものは100%嫌な成分でできているわけではない。

例えば、前述した、私が苦手だ(と思い込んでいる)チームスポーツ。

あれをやっている中高生の部活での「何でもかんでも連帯責任を負わされそうな雰囲気」は大嫌い。

でも、レシーブ、トス、アタックと連携プレーが繋がる瞬間はけっこう好きだ。チームっていいなと思える。

つまり、私はチームスポーツそのものが苦手なわけではなく、自分のせいでチームに明らかに迷惑をかけたと思う瞬間が嫌なのだ。
たいして好きでも得意でもないことで、何にも貢献できない、むしろマイナス影響を与えるその瞬間が。

一方で、「みんなで何かをする」ということは好きだと言える。
だから、いわゆる「ガチ感」の薄い遊びのスポーツなら楽しんでやれるんじゃないかなと思える。

結果、私は「チームスポーツが苦手」を解決できる手掛かりを見つけられた。
こうなれば、あとはトライ&エラーだ。
1つずつ「これなら大丈夫かも」の可能性を試していく。
そうすれば、どこかで思いもよらない「好き」や「得意」に出会う確率もグンと上がると考えている。

苦手を細切れにして、嫌な部分を摘み出す

こんなふうに苦手意識を細かく分解していって、
自分は何が嫌なのか、
何だったら大丈夫なのか、を考える
うちに
徐々に生きづらくなくなってきた実感がある。

今の私はこう考える。
細切れにして抽出した「超・苦手成分」は別に必要なければ克服しなくてもいい、と。
違う方法で目的を達成できるなら、苦手な方法をあえて選ぶ必要もない。

「若いうちの苦労は買ってでも」なんて言うが、買うのは好きな分野での苦労だけでいい。
だって好きなものの中にも、好きではない要素は存在するんだもの。

苦手なんか、みじん切りにしてしまえ。
いらない部分は、思い切って捨ててしまえ。

自分をすり減らして、なくなってしまう前に。

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