いまこそ!ラッキーマン 〜努力マンになりたかった話〜
今も昔も、だいすきな漫画があります。
『とっても!ラッキーマン』全16巻 ガモウひろし(集英社)
ラッキーだけで敵を倒すヒーロー、ラッキーマンとその仲間たちのギャグバトル漫画です。いわゆる30代ホイホイの1つですね。笑
個性的なヒーローがわんさか登場するのですが、なかでも私は努力マンが一番すきでした。とにかく努力だけで敵を倒す、地道にコツコツと積み上げるタイプ。
なんといっても彼のバトルシーンはアツい。ゆるいギャグに差し込まれる、自身を削りながら戦う姿には当時めちゃめちゃシビれた記憶があります。豆腐を鍛造して鉄ゲタにしちゃうやつとか。うわ懐かしい…
特別な能力はないけれど、努力でみんなと並ぶくらいの力を手に入れたっていうのが、何もない自分に知らず知らずのうちに勇気を与えていてくれたんじゃないかな、と思います。
そんなこんなで「一生懸命がんばることの美徳」みたいなものをうっすら持ちながら今まで生きてきたわけですが、昨日ふと気がついたことがあります。
それは、努力マンはもともと努力することがすきな人なのでは?ということ。
ここで大切なのは、使命とか役割としてじゃなくて、自分が好きこのんで並外れた努力をしているということ。
これもある種、才能の1つですよね。人や周りの環境に依存しない、自分のためだけの努力。私にはこれができなかった。何でもかんでも「あの人のために」「周りのために」と、結局自分以外のものに責任を負わせてしまっていたんですね。それで最終的にはメンタルが潰れてしまったのかな、と思います。
それだけじゃなくて、『とっても!ラッキーマン』に出てくるヒーローはみんなどこか「自分がやりたいようにヒーローやってます」的な奔放さがあると思います。だからこそみんな個性的で、ともすれば「コイツ、ストーリーの進行上必要か?笑」みたいな存在まで出てくる。
それでいて、全員が全員「ダメなとこもあるけどイイ奴じゃん」みたいな憎めなさを持ってる。
なんとなくな感覚でしか語れないけれど、人ってそれくらいのものでいいんじゃないかと思うのです。
社会にとってのヒーローでありたくて、そのために自分を削って努力して…っていうのも1つの信念だと思います。実際それができる人は素敵だなと思うし。
けれど、みんなが努力マンじゃなくてもいいんだな、とも思えるようになってきました。
それこそ目立ちたい一心だけでヒーローになったスーパースターマンとかね。
目的は違えど、協力できるところでは協力する、みたいなスタンスが、今の時代にはちょうど良いような気がしています。
そして、ラッキーマンにはそれぞれのヒーローへの温かい眼差しのようなものがあると思っています。ダメなキャラクターでも、そのダメさも含めてそのまま受け入れるような懐の深さ、みたいな。
そういう緩やかな愛情のようなものを感じながらラッキーマンを読み返し、心があったかくなるのを感じる今日この頃です。
努力マンにはなれなかったけれど、次はオリジナルの、自分のためだけのヒーローになりたいと思います。