2年振りの書きはじめ
実に2年ぶりにnoteへ投稿する記事を書いている。
もっとも、2年前のものは息子の描いた破茶滅茶な絵だったので、記事と言えるかどうかは定かではないのだが、もう最後にログインしてから2年が経ったということだ。今回ログインできるかどうか非常に不安だったが、IDを入れる際の間違いが案外2回程度で済んだことに驚きを隠せない。
いま私は2年前とすっかり生活が変わり、週に1回、鎌倉に通っている。夫が経営しているレストランの内装手直しやら掃除やら、室内に絵を描いたり、植木の植え替えとか、時にはモルタルを塗ったり、チラシ撒きもやる。雑用と言えばそれまでだが、バイトの仕事とオーナーの仕事の狭間で浮遊し吹き溜まりに溜まってしまうような仕事をこなしている。いや、割と責任持って楽しくやっている。
私はこの4月からそのように従事することになったが、それまでは週6で朝から晩まで働くシェフがその業務をしていたと思うと恐ろしい。少しでも彼の体力温存に役立っているのならありがたく思う。
いま住んでいる町から鎌倉へは、横須賀線を利用するのだが、平日の昼間の横須賀線下りはたまにふと間が空くときがある。というのは、大船止まりという列車が何台か続く時があり、そんな時は時刻表に数字はたくさん連なっていても、実際乗れる列車というのがポツンポツンとしか無いということになる。事前に時間を調べて出発すれば良いのだが、私は電車の時間をあまり調べない。都会に暮らす者の驕りかもしれない。けれど、都会と言っても東京23区内ではなく少しはずれた地域に暮らしていると、たまにこのように時刻表のエアポケットにはまることがある。いや、15分から20分程度の待ち時間なら、割とよくある。その度、事前に時刻表を調べて来ていればと後悔するので、その後悔に免じて多少の驕りは許してほしい。
さて駅に着いて列車まで時間がある時、定刻まで待っていてもいいのだが、私は大船行きの列車に乗るのが好きだ。せっかちだから少しでも目的地に近づきたい・あるいは、無いことは分かっているのだけど、大船始発の下り横須賀線になぜか鉢合わせるというミラクルに期待しているという気持ちも、数%は当てはまる。だが、普通に大船駅構内が快適なのだ。駅構内の中央に、北の改札と南の改札をつなぐちょっとレトロ風な大通りをミニチュアにしたような通路が通っていて、その両側に飲食店やら雑貨屋やら、お土産屋が軒を並べる。そのお土産屋を奥に入って行くと、書店につながっているのだ。いや、実際は一番メインの改札前に堂々と書店があって、その奥がひっそりとお土産屋につながっているのだから、お土産屋の奥の書店、というのは明らかに間違っているのだが、大船駅で降りずに私のようにミニチュア大通りを楽しんでいる者からしたら、そのような表現になってしまう。
ある日、例にもれず大船駅でブラブラと時間を過ごしていると、書店に差し掛かった所である本に目が止まった。「ももこの世界あっちこっちめぐり」文庫本だった。懐かしさに全身が包まれる。さくらももこのエッセイは私が小中学生の時にどハマりして、毎日毎日読み続けた結果もはや文体がさくらももこになってしまい、夏休みの宿題の旅行記が完全にさくらももこのエッセイの劣化版というまでに酷似してしまった経験がある。パクりたかった訳ではないはずだが、あまりに素直に影響を受けているのが恥ずかしい。今もそう、文体は似ている。成長期に読み続けた結果、私の血となり肉となり、高校受験などで忙しくなってエッセイから離れても、大学で論文に触れたり仕事でビジネス文書に触れたり、出産後に社会活動的な文章を書くようになっても、その本から得た経験は私の体にとどまったのだ。
さくらももこの本は私の祖母の物だったので、祖母が亡くなった後にどこに行ってしまったのか分からなくなっていた。けれど、今こうしてまた出会えたことが嬉しくて、つい手に取って購入した。
読んでみると、「そうそう、これだよ〜」という懐かしさと、'90年代当時の雰囲気と、今はもうこの地域に行ってもすっかり変わっていることがたくさんあるんだろうなぁ…という少しの切なさでじんわりとした。
改めて、さくらももこの視点を考えさせられたりもした。最近ではちびまる子ちゃんがルッキズムの温床であるとかさくらももこは本当は差別主義者であるとか言われることもあるが、それを言っているあんたはどうなんだと言いたい。さくらももこ自身は、ハンサムとか美女が好きという訳ではないらしい。ハンサムに興味が無いから、ハンサムな王子と会うという企画がポシャったりしているのだ。
彼女は美意識の高い正直者で、まず美意識に関しては、遺している沢山の作品から十二分に汲み取れる。そして、むしろ世の中の多くの人が感じてはいるけど目を背けている現実を正直に表現することで、ちびまる子ちゃんを始め暮らしを切り取った作品の大ヒットにつながっていると思う。本人がじっくりと書いた文章を読んでみると、現実を軽く綴っている奥に深い思慮があることが分かる。
そんなわけで、久しぶりにエッセイを手に取った結果、案の定、何か書いてみたい気持ちになってnoteを開いた。ダンスを観に行けば踊りたくなるし、絵画展に行けば絵を描きたくなるのだ。その勢いは、ガソリンが尽きると尻すぼみになってしまうことが往々としてあるが、今まで少なからず力を入れて取り組んでいたこと、ダンスとか、絵とか、環境活動とか、語学とか、保育とか、そういうものが完全に無になってしまわないように時々動かしてあげるということはあっていいことのように思う。
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