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「氷漬けになった戦後」


「名作ギャグ漫画が見抜いた戦後」

日本を代表するギャグマンガ「天才バカボン」には、戦後の問題を考えるうえで、とても興味深いエピソードがある。
以下より、講談社発行の「天才バカボン13巻」から、内容を引用し、簡単に要約する。

”ある日、戦中に行方不明となっていた少年の一郎が氷室から発見される。かくれんぼの際にそこに隠れ、氷漬けとなっていた少年はお風呂で氷を解かされ、復活するが、すでに戦後から25年以上経った日本では、戦争は終結。両親は他界し、唯一の肉親である弟は、明らかに自分より年上の中年男性となっていた。
戦中の価値観とのギャップに混乱しつつ、町を彷徨う一郎であったが、その途中でバカボンのパパに出会う。戦前から一貫して何も変わらず、一郎の存在に疑念を抱かずに接するパパとのやりとりは、彼を喜ばせる。
しかし、戦中と戦後の価値観の違いにより生まれた問題から、一郎とパパはもみ合いにの喧嘩になる。その際に頭部に衝撃を受けた一郎は、ショックから急激な成長を遂げて、パパと同世代のおじさんへと変貌する”[1]

戦争の終結から25年以上が経ち、戦前的価値観がどんどん失われていく中で、約30年間氷漬けにされ、現代に急に放り出された一郎が、戦後社会で様々な騒動を起こす様が、読者の笑いを誘う今作は、ただ、面白いだけではなく、戦前と戦後の間に存在する大きなギャップの問題。戦前に取り残されてしまった人の悲劇も描いた、高度な社会風刺を含んでいる。
では、今作が発表された昭和40年代後半とは、どのような時代だったのか。
その当時の時事にも触れながら、論考を続けていきたい。

「戦後を知らない日本人・一郎」

昭和20年8月15日以降。日本人は敗戦を知ることとなった・・・。
というのは、全ての日本人に適用されていたわけではなく、1972年のグアム島での横井庄一氏や、1974年ルバング島の小野田寛郎氏など、大東亜戦争の終結を知らずに、孤独に戦い続けていた人々の存在が明らかになったのが、昭和40年代後半の大きなトピックであった。
そういった時事が今作に影響したかは、推測の域を出ないのだが、一郎の立場は横井氏や小野田氏に非常に近しいものがある。
さらに、戦中には既に成人を迎えていた両氏とは違い、彼には素直に当時の価値観を信じていた、戦中の一般的な少国民の描写がされている。
が故に、劇中で彼が陥る混乱の度合いが大きいのは、笑いどころであると同時に、悲劇の本質を浮き彫りにしている。
戦後を知らない大人は確かに存在したが、少年は存在しなかった。
なぜなら、少年たちは成長していつかは大人になるからである。昭和40年代には殆どの元少国民たちは働き、結婚し、家庭を持っていた。元少年は存在しても、戦後を知らない少年は存在しなかった。一郎を除いては…。

「断絶との無縁に遭遇」

劇中の中盤以降、一郎はバカボンのパパという、断絶とは無縁の存在に遭遇する。
既成の価値観も新しい価値観も、巨大なパワーで破壊し、強者と弱者。男と女。犬や猫ですら彼の前に自由と平等、ナンセンスの名のもとに引きずり出され、アナーキーなやり方でギャグにされてしまう。
断絶⇒困惑⇒適応⇒常識化といった、多くの日本人が戦後経験してきたあり方から、彼は大きく逸脱している。が、故に彼は断絶とは無縁のように振る舞えたのだ。
そんなパパの存在が、一郎を断絶が生み出した困惑から一時的に開放する。
常識に捉われず、子どもの頃の遊びにも喜んで参加するパパは、一郎に戦前の気持ちを取り戻してくれた。
しかし、前述で引用・要約した通り、彼らは些細な価値観のギャップから喧嘩となってしまう[2]
断絶とは無縁であっても、パパもやはり、今を生きる戦後人であったのだ。

「過程喪失者の寄る辺」

さて、過程を得ることなく、急に大人へと変貌した一郎[3]はどう生きるのだろうか?
敗戦のショックから、国粋的な民族右派になるのか?
逆に、反動から左派的な思想に進むのか?
それとも、自由で娯楽の溢れた戦後社会を何もかも忘れて、放蕩するのか?
答えは以上のいずれでもなく、今は弟である二郎の妻となっている幼馴染の女性へと言いよるのだ[4]
過程を得ることが出来ず、適応のタイミングを失った人は、過去の美しい思い出に寄る辺を見つけたのだった。それが今は、所帯を持つ人妻であっても彼はそこに縋ることしか出来ない。
あれだけ、模範的少国民として振る舞ってきた一郎が、国家や思想ではなく、ほのかな淡い思い出に縋るというオチは深く感じ入るものがある。

「適応と拒否」

一郎は適応出来なかった・・・というより、諸事情によりその過程を失った結果、戦後を拒否せざるを得なかった。
戦後日本がアメリカの強力な圧力による『再・近代化』の約80年だとすれば、適応者(民主主義の称揚・アメリカンカルチャーの受容・日本国憲法の許容)が戦後人の正しいあり方であった。
しかし、そうした戦後に適応出来ない人や、適応の外にいた人々が改めて可視化されたのが、昭和40年代後半の世相だったのだ。
そして、作者の赤塚不二夫氏はそのような人々の姿を一郎に託し、漫画の形で見事に仕上げた。
だが、私がここまで述したように、その優れたギャグ描写の裏にはペーソスが含まれている。
私は一郎という、戦後を知らない少年に戦後の一つの悲劇の形を見る。
『戦後に対する適応と拒否』
この問題は私の心の中で年々重要度を増して、自己の思想形成に影響を与え続けているのだ。

引用文献
[1] 赤塚 不二夫『天才バカボン 13』収録「第10話」(講談社 1988)p129~142

[2] 赤塚 不二夫『天才バカボン 13』収録「第10話」(講談社 1988)p140

[3] 赤塚 不二夫『天才バカボン 13』収録「第10話」(講談社 1988)p141

[4] 赤塚 不二夫『天才バカボン 13』収録「第10話」(講談社 1988)p142

ジョルノ・ジャズ・卓也

友人でありライターの草野虹氏と「虹卓放談」というPodcastをやっています。よろしければこちらも視聴していただければ幸いです。








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