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[WC]意味付けと100円の話[ミーニングノート ]

#ミーニングノート というメソッドを続けて一年と少し。
ミーニングノートとは一日3つ「心が動いたもの=チャンス」をノートに書き、それを分析するという方法

詳しくはこちらで作者の山田智恵さんが説明されています↓

https://note.com/daijobu/n/n625e6db1babb

このチャンスはただの出来事のメモではなく、「意味付け」が大事。例えば、雨が降っていたとして「雨が降る」というのは事実。そのことを「やだな鬱陶しいな」と考えるか、「雨の音が心地いいな」と考えるか…など意味付けによって無色の出来事に色がついていく。

「つらい」「痛い」「できれば体験したくない」ようなことすらチャンスとなり得る。『ミーニングノート』ではこれを「スパイシーチャンス」と名付けられていて、このネーミングがなんとも「うまい!」と思う。ビターじゃなくスパイシー。

このスパイシーチャンスを考える時に浮かぶ小説の一場面がある。
あの有名な三浦綾子さんの『氷点』。
「もし100円(当時の価値で。今なら1000円弱くらい?)を落としたらどう思うか?」という会話の中でヒロイン(と位置付けて良いのか自信がないけれど)の陽子が「拾ってくれた人が喜ぶかもしれない」「200円落とさなくてよかった」などと「落とした分だけ楽しいことを考える」のだと話す(※手元に本がないので言葉は正確ではありません)。「100円落とした」という事実は変わらない。その上で落としたことを悔しがったり残念がることは更に損をすることなのだと。

スパイシーチャンスを考える時、いつも私はこの話を思い出す。事実は変えられない。時間も戻せない。けれども意味付けは変えられる。

変えられないものに囲まれると無力感を感じる。その中で一つでも変えられるものがあれば動くことができる。

ミーニングノートに出会った時、私は自分の失敗や性格を呪いたくなるほど、井戸のどん底にいるような状態だったけれど、「意味付け」という光を見つけてそこから這い上がってこれた気がする。とはいえ、人間は忘れる生き物なのでつい何かのせいにしたり嘆いたり、今もまだまだそんなことがありつつではあるけれど、その度に誰かの元に行ったかもしれない100円、そしてまだ手元にある100円のことを考える。「ないもの」ではなく「あるもの」が暗闇の中の光かもしれない。

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